※まだ評価はありません。
脚本・ストーリー 2.8 /5.0(56.2%) | 889位 /1088件中 |
キャスト 3.5 /5.0(70.4%) | 772位 /1088件中 |
演出 2.9 /5.0(57.2%) | 885位 /1087件中 |
音楽 3.1 /5.0(61%) | 761位 /1088件中 |
感動 2.8 /5.0(56.2%) | 690位 /1083件中 |
笑い 2.2 /5.0(44.8%) | 795位 /1083件中 |
スリル・興奮 3.1 /5.0(61%) | 622位 /1080件中 |
脚本・ストーリー 2.8 /5.0(56.2%) | 889位 /1088件中 |
キャスト 3.5 /5.0(70.4%) | 772位 /1088件中 |
演出 2.9 /5.0(57.2%) | 885位 /1087件中 |
音楽 3.1 /5.0(61%) | 761位 /1088件中 |
感動 2.8 /5.0(56.2%) | 690位 /1083件中 |
笑い 2.2 /5.0(44.8%) | 795位 /1083件中 |
スリル・興奮 3.1 /5.0(61%) | 622位 /1080件中 |
言いたいことは多すぎて、伝えきれないけれど。
たとえるなら、ノジマ式レインボードロップス。
鮮烈で奇妙で不穏で。大人は、どこか懐かしさもあり。子どもは、好奇心をくすぐられ。
口にすると、幾重もの深い味わい。甘くもあり、苦くもあり、酸っぱくもあり。
喜怒哀楽を揺さぶられ、感性という舌を試されている気さえする。
だけど、最後にはみんながハッピーになれる。幸せな後味。優しい余韻。
雨が降ってたあの子の空にも、きっと虹がかかるよ。
これは、クセになる。ヤミツキ。
ねぇ、もう1個。 また、1話から。
ナイフが出てきてドロドロのバッドエンドかと思っていたらみんながすいと公文さんのために頑張る爽やかなハッピーエンドで驚いた。でも後味よく終わるのは賛成。ま、いろいろできすぎな感はあったし、高校時代と今に至っても悠馬だけが報われないのはなんだかかわいそうだったけど概ねよかったかな。誰の目にも触れずひっそりと生きてきたすいが誰かのために行動したり蕾や公文を変えたりと変わっていけたのはよかった。最後に傘を差し出した人物が分かるかと思ったけど分からなくてそこだけモヤモヤが残ったな。
まあハッピーエンドといえばそうなんだろうけど、最後は登場人物たちの中でカップルを再編成するみたいな感じはちょっとご都合主義かな。蕾がすいとの触れ合いの中で変わっていく姿は、どれだけ美しいフィクションよりも似たような体験をした者同士のリアリティが勝ったと言える。事実、今、フィクションは力を失っているし、それは例えば悪い面なら震災とかコロナ禍、良い面なら大谷翔平みたいな、軽々とフィクションを越える出来事を我々が経験してしまったから。だとすると他の登場人物も過去のフィクションから逸脱しないとハッピーエンドとは言えない気がする。それならカップル再編はダメ。さっさと公文のもとを去った芽衣の方がマシ。とにかく全体的に観念的で、芝居が持つ本質的な肉体性を感じないドラマ。「高校教師」のような話を望むわけではないが、ああいう生身の人間感がないのは残念です。
やはりハッピーエンドは無さそう。毒を感じる。
帰省した公文が妹の虐待に遭遇し、逆上して両親を台所の包丁で刺す、蕾は自分が原因だと血の付いた包丁で自殺を図る。治療費捻出のためにアガサとアンディの物語を寄稿し時代の寵児となるも、いずれ罰を受けると予見した通りアガサの分身に刺され、呪縛から解放された蕾が雨に打たれているすいに傘をさし掛けるか。望んだ死後の名声には繋がらないと思うが...
公文は繰り返し「歴史」とか言うけど、たかが100年も生きられず、更に人生のコアなんて良いところ30年もないのが人間。1000年とかスケールが大きければ誤差として収束していくものも、個人のように小さいスケールではその誤差が大きく影響する。正直、理屈ばかりのわりに言葉のイメージやインパクトが先行していて論理が拙い。良くも悪くも概念的で、現実感が弱い。最後に公文が刺されたけど、妹のためにフィクションと現実を混淆した罪を、まさに具現化したような展開には首を傾げる。この世界はそこまで因果的はないし、多くは偶発的な何かで変わっていく。定められた因果律みたいな世界観は野島さんらしいけど、今更、機械論的な構造は説得力を持たないと思う。
ん~
リアリティって側面からみると、
ちょっとそれは……ってツッコミどころ満載なんだけど。
野島ファン?オタ?を自称する先輩いわく、
そういう楽しみ方をするドラマじゃないと。
他のドラマと決定的に違うのは、登場人物が嘘をつくってこと。
だから、発したセリフが
そのまま心情を表すわけではなく、全く逆の思いを秘めている場合も多いと。
自分を、あるいは誰かを守るために嘘をつく。
人の行動、言葉の裏を読んだりするのが苦手な人は向いてないそうで。
「何より、想像力よ!
野島さんが伝えたいことを、全力でパーリーしてみせる」って息巻いてました(^_^;)
ちな、その先輩、10年前の事故の真相、
見事に見抜いてました。
オタ、すげぇ……
公文さんと蕾ちゃんの関係性、野島作品あるあるの共依存的な愛の形とみました。
蕾ちゃんに施した催眠療法。辛い記憶を消した?
っていうより、アガサというキャラクターを上書きすることで奥底に封じ込めたっていうのが正解かな?
以下、2人の心理考察です。
あの日、蕾ちゃんを襲った出来事。
後悔、罪悪感。何度も死にたがる妹。
深く深く感情移入して、言葉にならない気持ちを、それでも言葉にしながら、書いた。
それが、
「死にたがる彼女を1000回救う」だった。
いわば妹をネタにする格好となったその作品が、
皮肉にも今の地位を作ったといえる。
蕾ちゃんを救うための催眠療法、そして生まれたアガサは、作家・公文竜炎の心の恋人、創作意欲の源泉となった。
一方で三島公平としての自分が惹かれているのは、すいちゃん。
10年前の事故の時から、ずっと。
だから、アガサの造形モデルは、怪我をしたすいちゃん。
でも、その気持ちは消し去らなければいけない。
アガサのパートナーとして生きなければ。
蕾ちゃんはというと、少しずつ回復ではないけど、冷静に自分を受け止めることができるようになってるんじゃないかな。
ただ、自分が傷ついたヒロインでいるからこそ向けられる比護・愛情。それを失うのが怖い。
それに自分がアガサじゃなくなったら、
公文竜炎としてのクリエイティブな熱情は消え失せてしまうかもしれない。敬愛する兄のためにも。
アガサとしてのキャラクター=オレンジウィッグを完全に脱ぎ去ることはできない。
他ならぬ蕾として愛されたいと願っていても。
二次元では、愛は永遠。
愛を守るために時を止めた、優しくも哀しい世界線。
蕾という名前の通り、蕾のままなら。
花は咲かなければ、散ることもまた、ないのだから。
兄と妹の共依存的関係。
「死にたがる彼女を1000回救う」。
でも、それは
「生きたがる、もうひとりの自分を1000回殺す」
の裏返しのような気がする。
瑞貴たちの離婚の原因は分かったけど子供を持たないことを絶対と決めているなら結婚する前にきちんと話し合うべきだと思います。できてしまえばかわいいもんよってことを往々にして言う方もいますしだいたいがそうなんでしょうが、それでもし愛せなかったら?それこそ悲劇なので瑞貴の判断も間違いではないと思いますが2人の人生のロスタイムは否めないでしょう。公文ですが妹のために自分の幸せを犠牲にするのはあまりいい選択とは思いません。今度はすいが公文のために動く番ですね。
公文の背景がだいぶ明らかになりましたが、要するに公文がフィクションという形でことごく正解を言い当てていたのは、あの事故の救出者は公文で、何らかの理由で事前にある程度彼らのことを調べていたからだということですか。まあそんなことだろうとは思っていましたが、妹とすいを重ねていたわけですね。でもやっぱりプロットありきで、そこに役をはめ込んだ感じが強くて首を傾げます。悠馬と瑞貴にしたって、まずは話し合えって感じだし、特に瑞貴は相手のことを知ったようなことを言ってるけど、どんなに親しくても何でも知った気になるのは傲慢なだけ。またずっと気になっていたんだけどサイコパスって言葉も本来と違う意味で安易に使わない方がいいと思うだけど。それだとちょっと思い込みの激しい人はみんなサイコパスかって話になるし。
ここまできてもすいの10年の引きこもりは自己責任なのだろうか。一人一人の少しの悪意がすいの一番楽しくて輝くはずだった10年を奪ったことにどうして誰も反応しないのだ?出てこれたんだしいいじゃん?またこうして集まれたんだしいいじゃん??そんな風に許せるものなの?しかも今更自分が飽きた旦那を、昔両思いだったんだもんね返してあげるなんて言われてのこのこもらうんかい?どこまですいをバカにしてるんだ?人の気持ちの大事なところが抜け落ちていると思う。
城崎はリリ子の脅迫を聞かなかったんですね。それならただの事故と言えそうだけど、そこで雨宮の突然のカミングアウト。これでまあ事故の辻褄は合うし、すいの行動や葛藤の本質も理解はできたけど、本当にそれで、さあ昔の仲間だって和解できるものなのかな?個人的にはもやもやする。この事故にそれぞれの若さゆえの思い込みや衝動が、たまたま集約したみたいな感じだけど、正直、盛りすぎ、作りすぎという感じもある。また三島ではなく公文に戻った彼のすいに対する距離感は、このある種の茶番が彼自身のために必要な何かの暗示だと思うけど、逆にすいの気を引いているともいえなくもないし、全体的に匂わせ感が強かったり、必要以上に露悪的なところがやはり好みではないです。
掘り出せば掘り出すほど人の悪意みたいなのがてんこ盛りで出てくる。それを青い時というだけで全て流せるだろうか。公文はびっくり箱みたいに次から次へと出てくるエピソードが全て作品に活かせると楽しそうだが、すいちゃんの心は保つのだろうか?もうやめてくれとストップをかけたくなるけど、その先に救いがあると信じて見続けてしまう。リリコは罪を告白して自分が楽になりたいだけ、真実を知ってもまだ秘書として雇うことはしないでほしい。
何処か不思議な魅力のあるドラマ。どんな内容か全く知らずに見始めたが、毎週日曜日の夜が楽しみ。
キャスティングが絶妙で、すい役の飯豊まりえの演技はハマっています。公文役の溝端淳平も新境地を開いた感じ。
この先の展開が楽しみ。
実は城崎が脅されてバイクに細工をしたののですね。まあ盗撮とかして、バイクに細工して、たまたま生きていたからといって、よく平気な顔をして事故った二人に会う気になるし、りり子にも会えるよね。公文もいつも通り、青春みたいなオチをつけるけど、ただの殺人未遂に笑ってそういえるところがある意味でサイコだし、自分がやっておいて取り乱すりり子も違うんじゃないと思うけど、それにカメラを向ける芽衣もどうかしている。ホント毎度のことなんだけど、何だろう?このドラマの違和感。多分、露悪的だからリアルっぽく見えなくもないけど、実はすべてが現実離れしていて、いろいろ首を傾げてしまう。
すいは純粋のすいなのかな。あの事故のせいで10年もこもりびとになっていたのにその当時の友達と懐かしさもあるのかもしれないけど笑顔で会えるすいの気持ちが分からない。事故だって自分が運転していたわけじゃないし出来うる限りの救助要請もした。いくらなんでも面と向かっていなくなってくれと言われる筋合いはない。全てを飲み込んで全肯定して、だから壊れたんでしょ。みずきだってりりこだって内心穏やかじゃないはず。また追い出すのか?いつ壊れるか不穏な空気が怖い。
りり子、ヤバいでしょ。彼女の立場で、よくすいに「私はまた会えると思ってた」みたいなことを言えるよね。普通の人間なら出来れば会いたくない筈。公文も「青い」時代の過ちみたいな感じで、さらりと流すけど、作家としてのエゴが何か知らないけど、やっぱりおかしい。このドラマの登場人物には、まったく共感できないし、理解できないところがある。脚本の野島さんに言いたいのは、こういう隠したエゴの擦り合わせみたいなのって、バブル時代の狂乱の後、まさに宴の後の虚無に近いと思う。そういう露悪的なものを美談ぽくするのは、首を傾げる。中身が空ならいくら振っても空なんだと思う。
ここにきて少しずつ笑いというか、軽妙洒脱なやりとりを目指しているような雰囲気があるけど、その感じも何だか中途半端で上滑りしている感じがします。それにしても公文にしても来栖姉妹にしても、どこかすいをバカにしているようで魅力をまったく感じません。なんだか人の感情と乖離した異物にさえ感じられます。本来ならコモリビトであるすいの方が異物的である筈だから、それをあえて逆転させる思惑があるのかもしれませんが、現時点ではそれもただ露悪的で失敗していると思います。何にしても瑞貴も悠馬も嫌な奴ですね。こんな連中ばかりで、すいが再び社会に出ようとするモチベーションになり得るのか首を傾げます。
すいの10年前の記憶は蓋をされて今まで思い出さないようにしてきたのに、みんなと会ううちにその重い蓋が開いてさまざまな物が出てきてしまう。親友の瑞貴、で終わればいいものをたくさん思い出してきてそれでも親友と呼べるのか。瑞貴の親友というパワーワードは本当の気持ちという面もあるけど、親友という言葉ですいを縛った可能性もある。お互い告白されるまではしないといいつつ、それを破り挙句すいは雨宮を好きとまで嘘をつく。学校を辞めた原因の一つでもあるし会いたくないと思わなかったのだろうか。すいの気持ちが分からない。
懐かしいような切ないようなメロディーに連れられてすいの苦すぎる思い出に引きずられそうになる。元サッカー部との再会はさわやかに見えたけど、代わりにお前が死ねばよかったなんて言った人を簡単に許せるのかな?それ以上に好きだったと言われればそれまでだけど、どうも受け入れ難い。そして肝心の雨宮とどうして海に行ったのかはまだ謎。親友と思っていた相手はユウマと結婚していたみたいだし10年眠っていたすいはまだまだ混乱するだろうね。
途中で公文が純文学ではなく、ラノベ作家になった理由を語っているけど、それがこの脚本を書いた野島伸司の本音だったとすると、やはり野島さんはもう時代を読み違えていると思う。そもそもラノベ作家が公文の言ったような状況だったのは、もう20年以上は前。今は「なろう」とかのおかげで状況は違う。さて本編だけど、きっとこの後、すいたちのバイク事故が本当に事故だったのかという展開になるのだと思う。でもそれに意味はあるのだろうか。証明もできない過去を掘り起こして意味が生まれるのは、それこそ純文学の世界であって、ラノベのノリではない。とにかく全体に意味ありげなモノローグが多様されている感じが、どうにもむずむずと居心地の悪さを感じてしまう。
すいちゃんの壮絶な出来事は10代なら抱えきれなくて引きこもりになってしまうのは分かる気がしました。ただそこから10年は長かったよね。その原因にはこのままささやかだけど娘と2人穏やかな幸せに浸っていたいというお父さんの気持ちもあったような気がします。きっかけを待っていたとも言える時期になり外から風が入ったことで動き出す。今まで他の人を遮断して生きてきたのに同窓会はハードル高すぎるでしょと思ったからトイレで籠って終わりはリアルだなと思いました。
かつて時代の寵児だった野島伸司さんが久しぶりに地上波の脚本を書いたということですが、テレ朝は同じこのクールのドラマで三池崇史監督を起用したり、1980~90年代回帰路線でも意識しているのでしょうか。さてこのドラマですが、露悪的な感じは野島さんらしいけど、主人公のすいの感性は昔ならヴィヴィットとか言われたのかもしれません。でも今だとただイタい人かな。飯豊さんの芝居がうまいだけにもったいない。公文も何か秘密がありそうだけど、すいを巻き込むやり方や方法論は偶然とハプニングを期待する90年代のテキスト。主題歌も懐かしのバスストップだし、そのレトロさを楽しめばいいのかもしれないけど、正直、初回を見る限り、時代遅れの感じが強いです。