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脚本・ストーリー 4.5 /5.0(89.2%) | 74位 /1087件中 |
キャスト 4.6 /5.0(91.4%) | 141位 /1087件中 |
演出 4.5 /5.0(89.2%) | 82位 /1086件中 |
音楽 4.5 /5.0(89.8%) | 52位 /1087件中 |
感動 4.5 /5.0(89.4%) | 29位 /1082件中 |
笑い 3.9 /5.0(78%) | 129位 /1082件中 |
スリル・興奮 4.3 /5.0(86.8%) | 62位 /1079件中 |
脚本・ストーリー 4.5 /5.0(89.2%) | 74位 /1087件中 |
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演出 4.5 /5.0(89.2%) | 82位 /1086件中 |
音楽 4.5 /5.0(89.8%) | 52位 /1087件中 |
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スリル・興奮 4.3 /5.0(86.8%) | 62位 /1079件中 |
最終週はとりあえず懐かしい人を全部出すみたいな演出に少し残念に思いました。全てをきれいにまとめたりしなくても良かったんじゃないかな。ゆみの何者にもならなかったという後悔は全くの的外れ。ゆみが思う全ての好きは育んでくれた皆さんによって作られたものだと思うと寅子は十分な愛を持って悩みながら周りの人を頼りながらも一生懸命育てたことが分かって素敵だなと思いました。キャリアを重ねた寅子や家を守り続けた花江ちゃん、子供を持たないと宣言したのどか、結婚しなかったゆみなど多くの女性が誰かに自分を重ねて見ることができたのが虎に翼の魅力でした。半年間とても楽しかったです。
女性の権利がまるでない中をサラッとしたたかに生きてきた大正生まれも、表向きは男女平等と言いながら女性の生きる道がほぼ1つしかなくて苦しんだ団塊の世代も身近に見てきたからこそ、最後まで本当にいろいろと考えさせられるドラマだった。最終が寅子亡き後の平成11年だというのも感慨深い。寅子の凄い所を全く引き継がなかったように見える優未が、通りがかっただけの女性に声をかけ法を語るのは何だか嬉しかった。それこそ寅子たちが一生涯かけて得た権利の一つだろうから。ちゃんと法という形で優未の中、世の中に生き続けている。寅子から仲間たちへの「法とは何か?」という問いが最後にあったことも、「さよーならまたいつか」と続きを感じさせる終わりであったことも、続きは私たち自身が考え続けるんだと思えて良かったと思う。こんなに最後まで中身の濃い考えさせられる朝ドラは初めてだった。
最終回はいきなり幽霊で登場ですかww。寅子は航一や花江より先に亡くなったのですね。優未は寅子には似ていないけど、「優」しい「未」来を描ける人にちゃんとなっていました。全体を通してみると、とても面白い朝ドラだったと思います。朝ドラのヒロインは私的な感情描写が多いんだけど、このドラマでは社会的な面にスポットを当てて、私的感情はもちろんだけどしっかりと女性やマイノリティの社会的問題にも向き合っていました。下手な大河ドラマの女性主人公回よりも、ずっと内容が深かった。脚本も演出も良かったし、役者陣も素晴らしかった。もちろん米津さんの音楽も最高で、曲の良さはもちろん、山頭火の句の引用など素晴らしい。そのすべて含めて個人的には近年で一番好きな朝ドラです。
たくさんのやりたいことがあって、何者にでもなれる。なんて自己肯定感高く育ったのだろう。このことだけで寅子の子育ては成功だったと言えるのではないか。ちゃんと子どもの頃に言われたように拠り所をたくさん作った結果がここに繋がっている。これからも何があってもきっと自分の意思で判断して歩いて行けるだろう。いよいよ家裁所長になって、それを最初に報告したい人が花江と両親で早引きしたというのが寅子らしい。根っこがちゃんと猪爪のあの家にあるのだ。笹竹でのお祝い会での懐かしい面々がいろいろありながらも結果良い方へ行ったのがみんなの表情を見ていてよくわかる。今は少しは丸くなっているけれどみんなパワーの塊で、時代を先取りして変えていく人たちだったのだと改めて思う。桂場とのやり取りも懐かしさもあり、新たな発見もあり。いつまでも見ていたい気持ちになった。
やっぱり寅子と花江の組み合わせが一番流れが良いし、感じも良い。このドラマの最強コンビだね。でも何だかサヨナラのフラグっぽい感じがあった。花江ちゃん、長生きして欲しいんだけどな。そして寅子のかつての学友たち。それぞれがそれぞの立場で頑張ったよね。まさにその積み重ねが寅子の地位につながっている。優未の言うように何にでもなれる自由を勝ち取ったのは、寅子たちだけでなく多くの人たちの思いと尽力のおかげ。細かな考えや思惑が100%一致しなくとも、みんなが同じ方を向いた結果なんだと思う。それが民主主義。
昨日切々となぜ人を殺してはいけないのかという問いに答えていたのに、今日はみいこの殺人を肯定する。それは矛盾するようで矛盾していない。事件は全てがケースバイケースで憲法に照らし合わせて裁くことの限界のようにも見えた。そこを埋め合わせていくのが司法であり今回の裁判はとても見応えがあったし、桂場の最後のいい仕事が見られて良かった。ミイコの新潟行きも女子部のナイスアシストがあってほっこり。みんないつまでも繋がっているんだと思うと嬉しいよね。
きのうは「どうして人を殺してはいけないか?」という美雪からの問いに対する答えで、今日は「殺してしまったのだから服役した方が」というミイコからの問い。同じようでありながら対極にある問いだけれど、これが罪ならミイコを虐げてきた父親の行為を肯定することに繋がるという寅子の答えが何とも明快だった。ミイコがその時のことで日常的に思い出し苦しんでいること、少し分かるような気がする。取り返しのつかないことならなおさらだ。だからこそ寅子の言葉には救われる気がするし、ちょっと力が入り過ぎな「失敗していない」にも勇気がもらえた。
美位子はよかったですね。轟とよねも頑張った。ただしこれは19年前に穂高先生が主張した重罰規定が違憲だとするものではなく、尊属殺だと無期懲役か死刑になるけど、美位子の父親の酷さをみればこの重さは不平等で憲法違反だというもの。だから尊属殺の重罰そのものを否定するものじゃない。結局、尊属殺の重罰規定がなくなったのは1995年だしね。でも大きな一歩だったのは確か。この時間のかかりようは、法を改正できる立場にある国会議員さんたちの怠慢や問題意識の低さ、思想の偏りを批判すべきだね。いずれにせよ何かが大きく変わるのには多くの人たちの時間と尽力が必要なんだなと改めて痛感しますね。
美雪は朧げな記憶しかない母の影響をどこで受けたのか。それは周りのせいだろう。狭い田舎で育てばあの子の子供だと口さがない噂も入ってくるだろうし、みさえと容姿がそっくりに育つとみさえのようになってしまうのではないかと周囲がピリピリしたのだろう。美雪もまた自分のルーツである母のことを知りたくて追い求めた結果かもしれない。寅子はもういない母から解放をしてくれた。これから美雪の人生が始まるのだ。素敵な人生を歩めるように願っている。
「なぜ人を殺しちゃいけないのか」なんて問いは、1970年代には無かった記憶がある。そんなこと言い出したのはこの20年くらいじゃないのな。1970年代に殺人による死亡者は年間約1300人。2020年代は200人台だ。交通事故死は前者が約1万5千人、後者は2000人台。望まない死が今よりずっと身近に溢れていた。お年寄りは病院じゃなく自宅で看取られていたし、死はそれほど特別なのではなかった。逆に近年まで増え続けているのが自殺。だから「なぜ人を殺しちゃいけないのか」という問いは自殺増加時代の問いだと思う。「人」には自分自身も含まれているからね。何にせよ寅子がかつて大人としての態度をとれなかったというのは、その通りだと思う。大人と子どもは人権として対等でも、社会的に大人は彼らを導き、教育する立場にある。個人的には美雪は罰せられるべきだと思うけどね。
みさえの残したメモのあの人が寅子だと言うのは当たっているのかもしれないけどすぐ自分だって分かるのってちょっとおこがましいと思う。これこそ寅子の持つ万能感というか自分なら何かできるという思い上がりのように感じた。そしてみさえのそれも田舎の優等生が上京して感じるギャップそのもので特別なものじゃない。ただのお山の大将が出端を挫かれただけだろう。よねの主張は見応えがあった。これを最終週に持ってくる気概を感じた。
美雪は祖母に育てられているのだろうか。美佐江をなぞるように生きている不安から寅子に助けを求めに来た。同じようなことをやっていることが書類からも見える。あの時どうすればよかったのかの答えを出すときなのだろう。朋一は家具職人になるという。そういえば雨戸だったか直してくれたって百合が誇らしげに話してたっけ。父との雪解けのきっかけも棚作りだったし、思いついた時に心が熱くなったなら頑張れるだろう。好きな物を嫌いにならないうちに距離を取るのは優未と同じだ。今回は航一も背中を押せたし良かった。今回は何と言っても最高裁でのよねに尽きる。これを描きたくてよねがいるんだなと。よねが戦う時、背中を預けられるという意味で轟の属性は大事だったのだと思った。
ちちんぷいぷい、微笑ましかったですww。朋一はいきなり家具職人か。弁護士すら選ばないんだね。完全に司法の世界に見切りをつけたという感じでしょうか。若い人材を失う。それはある意味で桂場の罪と言えるかもしれません。よねの最終弁論は素晴らしかった。まったく同感だ。法の下の平等をうたう限り、親族であれ、他社の人権を侵害したり制限したりすることは間違いだし、許されない。桂場は腹をくくるべきべきだね。少なくとも尊属殺は早晩消えるというのが示唆されていました。
桂場の言う時期尚早、その言葉こそがいつも今起きている問題から目を逸らす原因になっていないか?寅子が妊娠した時の穂高先生や、寅子の後輩が妊娠した時の働き方について、今回のミイコの件、朋一たち若い判事たちの声、今はまだ議論は早いって取り残される。いつか寅子が今の話をしていると激怒していたのが懐かしい。桂場も年を取り問題を先送りする側になってしまったのが残念。やっぱり年をとると腰が重くなるのか?重鎮とやらはただの堰き止めの石になってはいけないと思う。
航一は一旦は「なるほど」と言ったものの、このままだと戦争研究所の二の舞だと思ったんだろう。もう一度桂場に意見する時の航一の顔は今まで見たこともないほどの形相だった。今までの温和な人物があそこまで言うとやはり心に少なくない影響が残る。鼻血を出した航一を手当てする桂場はご愛敬。寅子がかけた言葉は少し唐突な感じもしたけれど、左遷した人たちに恨まれるのは当然だと思うし、どれだけ寅子と距離を置こうとしても狭い世界の上の方で仕事をする以上一緒にもがくしかない。そして美雪はやはり美佐江の娘だったのか。美佐江の死も手帳の言葉もなかなか辛いことで、母が守口から並木になっているのも何かあったのだろう。愛されなかった美雪はどういう環境にいるのだろうと心配になった。
いやいや、美佐江の死に対して、寅子が責任を感じる必要はない。かつて大人なのに寅子が彼女に怯んでしまったことを、寅子自身が許せないだけ。それを責めるのは欺瞞だし、傲慢だね。所詮、田舎のお嬢ちゃんレベルのカリスマなんて、都会に出れば大したことはないに決まっている。寅子が何に怯んだのかわからないが、本物の異能の人なんてそういるわけがない。それはそれとして航一の強弁は見事でした。桂場の気持ちもわかるんだけどね。果たして法律は世の中のどれくらいの人が認識したら、法律に反映すべきか、難しい問題だと思う。まだ少数でしかなく先駆けとして法制化するのもいいけど、それが優生保護法みたいに勇み足になり、国家的犯罪ともいえる状況になるかもしれない。あるいは多数の支持があっても、一時の流行で盛り上がるだけ盛り上がったら下火になる可能性もある。だから時期を見る必要はある。でもね、最初の一石は大事だと思う。それが航一の言いたかったことなんだと思う。
なんとなくミイコの表情に違和感があったのはこれだったのか。自分のことを何を話されても平気なのは可哀想な自分になれてしまっている部分もあるのだろうし、そして可哀想な人を見て勝手に心の中で仲間にして安堵したり、嫌なことに自分より不幸な人を見つけてホッとしたりする。自分のことを言われているようだと思った。本当にひどい胸の悪くなる事件ではあるけれど、クソなのは周りや事件であってミイコそのものではない。周りと比べて自分の位置に一喜一憂している方がよっぽど不幸だ。よねの言葉づかいはたしかに酷いけれど、ひどく心に刺さった。周りの評価に流されて自分を不幸だと思うのではなくて、自分で今や未来の自分を選んでいるという芯みたいなもの、それは涼子さまが得ようとしたものでもある。それを理解し合える仲間が素晴らしいと思った。
涼子さまの気持ちはわかる気がします。こういうプライドは捨てるべきではないし、それに見合う結果を出したことが凄い。プライドには結果が必要です。また口は悪いけど、よねの言葉も金言だ。周囲は「くそ」だらけだけど、だからといって自分も「くそ」だということではない。親だの社会だのに文句ばかり言っている人は、涼子さまのプライドとよねの言葉を胸に刻むと良い。そして朋一だけど、人の身体はひとつしかないから、生きていく中で嫌でも順位をつけなければいけない。それについて恥じることはない。胸は張れなくても、泣きたくなっても、自分の選択した結果を、誰かのせいにしないのは素晴らしいと思う。
女子部6人が揃うことはまだあるのだろうか、今日みんなが談笑してからの真剣に勉強している姿をこれが最後でも悔いはないと思いながら目に焼き付けていました。法律で繋がった彼女たちがこうしてまた集まって法律の問題を解いているなんて、なんてドラマチックなのでしょう。途中で諦めた涼子さんやヒャンちゃんのようにいつ再開してもいい、いつからだって挑戦できる!と勇気をもらいました。みさえの再来は娘でしょうか。あの場所で会った意味を知るのが怖いです。
一部の人たちの表情のない淡々とした感じの仕事ぶりは決してやる気がないわけではなくて静かな怒りを内に抱えた故のこと。家庭裁判所の理想に燃えて驀進してきた世代が見て見ぬふりをしてきてしまったのもの。それは家庭裁判所そのものの地位向上だったり、人員不足の問題だったり、裁判官の質の問題だったり。それが一気に表に出ている状態でもあるということか。寅子世代のツケと言われてしまえば耳も痛かろう。プライドがあれば捌ききれないほど多数の案件を抱えて、結果後悔も残り少年事件も減らない状況に絶望すらしていそうで。決して効率化をして何とかなるものでないだけに現在にも通じる難しい問題だ。猪爪家の話し合いはあらゆる方向からの意見が出ていて本当に感心する。そして星家での懐かしの女子会。あの時渡せなかったノートに変わるよねの問題集。受け取る涼子様の表情がすべてを語っているようで。一緒に解こうとする玉に横からそっとアドバイスするよねの顔つきの優しいこと。いろいろあっても、最後は上手くいくという言葉が思い浮かんだ。
調査官の音羽の意見には頷ける。戦後の日本は団塊の世代の人海戦術というマンパワーをフル活用して高度経済成長を遂げた。そこには昭和の運動部的な精神論と体力勝負みたいな要素があり、だからこそ女性や弱者は下に見られた側面がある。効率なんて二の次でとにかく人数と体力で押し切るのが日本企業や社会の土台にはある。人数を増やすよりまずは働けという思想は、音羽の言う通り個々の案件の質を下げる。まさに日本が力を失ったのは量から質へのシフトに失敗したからなんだよね。そして美佐江の面影に狼狽する寅子。いい歳した大人が、子どもに狼狽するなと言いたいところですが、物語としては面白い。さて美佐江との関りはいかに?
朋一‥完全に浮いてますね。寅子の息子としての認識はあるだろうし職員からしたらやりづらいったらありゃしない。浮かない顔も心中お察ししますって感じよね。女だからどうしてもみいこに肩入れしてしまう。これが罪なら父親の犯した罪はどのくらいのものなのか知りたいわ。ついでに母親もね。よねさんには自分と重なる部分があって余計に思いが募るのでしょう。どこでも穏やかでニコニコしているみいこさんのこれからが幸せであるようと願っている。
よねの言葉は、少年審判の重要性とも重なる部分がある。子どもは自分の生まれた環境から簡単には逃れられない。そんな子どもの手による犯罪が、果たして周りの大人や社会の歪みによって引き起こされてはいないか、もしそうならそれはむしろ大人や社会の側の責任ではないか。そのことを抜きにしてただ罰を与えるのは大人の傲慢。もちろんどうあれダメなものはダメという厳しさも必要だけど、問題はバランス。そして政治家の圧力はおかしい。そんなに気に入らないなら、そういう法を国会で成立させればいい。それが国会議員である政治家の役目なんだから。桂場のやり方はまるで政治の論理だ。何より司法が低きに流されてはダメ。多岐川の理想論が最良とは言わないけど、司法が政治に迎合するようでは民主主義の腐敗としかいいようがない。しっかりしろ、桂場。
おぞましいけれど、ありふれた事件という言葉に震えた。父を殺して直接的な暴力は無くなったけれど、自分を捨てた母親に子どもを育ててもらうためのお金を送り、男の大声に身がすくみ暗闇を恐れる。まったく理不尽だけれど、どこまでも終わらない。美位子の柔和だけれど変わらない表情に違和感があったのだけれど、よねの言葉で心の内を理解できた。あれは彼女なりの鎧だったのだ。直接聞きに来たのが航一で良かったと思った。桂場にとってもライアンたちにとってもタッキーは心の支えの部分がありそうで、桂場がこれからどうなるのか、少年法もどうなるのか、美位子の件も先を知るのが怖いと思ってしまう。
政治家からの介入を嫌って、若者の勉強会を弾圧する。公平な判断が求められる裁判官ではあるけれど、朋一たちが話題にしていたのは被害者たちの人権だったりで、裁判官と言えども言論や信条の自由は認められているはずで。お団子を食べに来なくなったようだし、桂場は変わってしまったのか、それとも元々そういう部分があったのか。今もなお時々話題に上がる少年法改正も改正ありきで委員会が開かれている。どうやって思いとどまったのか。北欧で更生プログラムを充実させたら再犯率が下がったと言うのを聞いたことがあるから、やはり少年法の理念は大切なのだと思う。よねたちの事務所に身元調査の話が持ち込まれていたが、就職も結婚も身元照会が普通の時代だった。戦後急激に変わった世の中の歪だったり揺り戻しだったりだったのかな。
ミイコの事件のやるせなさったらない。どんな親でも親は絶対なのか?ミイコの蹂躙され続けた何年もの時間は蔑ろにされるのか?親じゃなくても命を奪ったらダメ?ミイコの心は何回も殺されてきたのに??線引きが分からない。やっぱりここでも女性の地位の低さが根底にある気がする。力の敵わない相手に従うしかない気持ちやまして男性から受ける性虐待の怖さや痛さは分からないだろう。寅子はどうしてはて?とならないんだ?今まで通り憤ってほしい。
少年法の厳罰化の良し悪し以前に、政治が司法に介入することがダメ。三権分立を守らなければ、どんなに意味のある法律であれ、民主的な手続きを無視したファシズムにすぎない。民主主義のプロセスは時間がかかる。だからといって専制君主時代に戻るのは愚かだとわからない政治家がいることに、この国は戦前と何も変わってないじゃないかと思ってしまう。しかも行政における人事権を乱用している。立法、行政、司法のすべてを牛耳ろうというのは完全に独裁者の思想だ。こういう歴史をわかりやすいドラマの形で残すことには意味がある。
少年法はやっぱり戦後すぐとそれからでは犯罪の質が違うから一緒にはできないと思う。戦後親も亡くし食うに困る子供達がわんさかいて犯罪でもしないと生きていけない時代、児童を保護するという役割が多かったのではないだろうか。それから時代が変わり、自分は少年だから犯罪を起こしても守られるはずだと開き直る者までいる。それこそ時代背景と共にいろいろ変えていくべきだろう。全ては愛で救える、それは理想だけど現実的ではないと思う。
多岐川さん、亡くなりましたか。残念。戦後すぐの時期と現在では、少年法の意義がちょっと違う。戦後すぐは戦争孤児とか、教育もなにも受けなかった子どもが生きるために犯罪を行っていた。昭和40年代になって戦争で早くに父親を亡くしたような人たちも大人になり、結婚して子どもを育てるとなった時、モデルとなるべき父親像を知らないから歪みが子どもに出る場合もあった。それがこの頃の少年犯罪の根底にあった問題のひとつ。だから当時は刑罰より教育を求めた。今はそうじゃないから、同じようには言えない部分があるように思うけれど、当時としては多岐川たちの言い分が正解だろう。ヒャンちゃんの娘だけど、恋人に在日だからとフラれたが、おそらく恋人も学生運動家だったと推測される。平和や平等を唱えていたくせに、自分のことになると背を向ける。彼らの薄っぺらさを感じるね。無責任時代と言われだけのことはある。
ゆみもそこまで頑張ったなら卒業後は好きにしていいからそれまでは頑張りなよって言いたくなるし、のどかの恋人にも大人同士だから許しは不要も正論だけど感情として今まで育ててくれた親にのどかと幸せになりますお嬢さんと結婚させてくださいくらい言ってもバチは当たらないだろうと思う。そしてなにより残念だったのがのどかの恋人に清潔感が感じられなかったこと。親戚のおばちゃんのような気分で見ている私にとってそこが1番のガッカリポイントでした。
この時代の理系でしかも院生って女性にとってはどれだけ大変だっただろう。すぐにお腹がぎゅるぎゅるしてしまうほど繊細な部分も持ち合わせている優未だから、寅子ほどどこまでも突き抜けるほどの強さはなかったのだろう。嫌いになる前に辞めたいという気持ちわかる気がする。甘いと言われるかもしれないけれど、そこまでギリギリのところまで頑張ったのだと思う。25歳の女性をクリスマスケーキに例えていたのはこれよりもまだもう少し後なのだから、優未の辞める決断も地獄かもしれない。それでも自分で選んだ道ならば頑張れるし責任も持てるはず。航一の親心もわかるし当時はあの考えが一般的だと思う。ただ、ものすごくクールで家族と距離の合った航一がしっかり普通の父親になったのだとじんわり温かい気持ちになった。
優未の件に関しては、寅子の言うことも航一の言うことも一理あるし、間違ってはいない。だからこそ優未本人の意思が大事だとも言える。それはのどかたちも同じ。何か幸せなのか、人によって違うわけで、一般論が通用しないことを親は頭においておかないとね。少年法の厳罰化だけど、少年法も含め、厳罰化は犯罪の抑止力になんてならない。厳罰化がダメというのではなく、たとえば酒酔い無謀運転が果たして過失なのか、という議論みたいに犯した罪と量刑が釣り合わないことが問題。少年だから許せるレベルのこともあるし、少年でも許されないレベルのことがある。そういった見直しは、いつの時代であれ必要だと思う。
生理休暇や出産のために女性が抜けた皺寄せが男性にきているから大変だ?じゃ子供を産んでみたらいい。毎月来る生理に苦しんでみたらいい。それでせっせと世代は引き継がれ人間が増えていくんでしょうが??そういうことを蔑ろにしてきたおかげで少子化だよ。そりゃそうだよ。昔桂場がついて来れるやつだけついてくればいいみたいな発言してたけど、勘違いも甚だしい。寅子たちの時から変わらないなら100年後おんなじことで悩む女性がいると思うとなんだか虚しくなる。
いつの時代も配慮してあげてるでしょ?でも同じようには働けないよね?と女は言われながら細い道を歩いて来たんだな。中山先輩の涙はもどかしさや悔しさ怒りのあふれ出たものだった。ついつい女は…と見てしまっていた自分が恥ずかしい。司法への圧力が戦前のように強くなり、桂場もイライラがひどうそうで、相手に隙を…と言っていたけれど、やはりあの件をやるのか。思えば桂場は最初から司法の独立を口にしていた。今日の寅子が朋一に「裁判官とは泉を守るようなもの」と言えれば良かったのだけれど、桂場が寅子に言わなかったように自分でたどり着かないと意味のないものかもしれない。のどかの結婚と何か話したそうな優未、それに美位子さんの事件と気になることが多すぎる。
女性差別が社会的な問題である本質を理解できない会議録、三権分立の意味を理解せず強権的をリーダーシップと勘違いする政治、自分たちがバリケードを作って真面目に学ぼうとする教授や学生を大学から追い出したくせに英雄面する学生運動家、いずれも根本にあるのは「自分たちこそ世を憂いている」「自分たちは優秀」「だから正しい」という根拠のない三段論法。226事件の青年将校たちの論理とさして変わらない。アメリカによって作られた民主主義の土台がない日本らしい歪みだとも言えますが、だからこそ伝統だとかいう嘘はやめて、学ばねばならない時期だった。わかりやすく言えば民主主義についてティーンエイジャーにすぎなかった頃の、思春期的あるいは中二病的な時代の日本の姿ですね。それをドラマという形でも再検証するのは良いことですが、学生運動にはちょっと肯定的すぎるかな。
学生の頃、まだ当時の先生が教鞭をとっていたから安保闘争当時の話を聞いたことがある。半年後何もなかったかのように半年分進んだ先から授業を始めたとのこと。それにしても今では考えられないほど世の中にはパワーがあふれていた気がする。薫があのまま安田講堂まで運動を続けてしまったのが意外で、多岐川も身近にいてそれでも大人への反発が大きかったのか。ヒャンスクが弁護士になっていて娘の弁護をしたいというのは、自分が出自を隠していたことがそうさせているのだろうか。桂場への圧力も、尊属殺の裁判も、寅子が長く法曹界で経歴を積み上げてきたからこそ重要なものが盛りだくさんで、史実は知っていてもどうなっていくのかドキドキしながら見ている。しかし尊属殺のこの事件は何度聞いても震えるほど腹が立つし気持ち悪くなる。
轟たちが弁護を引き受けた事件は、尊属殺人の文脈で必ずあげられる有名な事件です。でもそれだけでなく、家庭での虐待という現代的な問題もあり、さまざまな意味で大きな事件だったと思います。この令和に振り返る意味はあるなと思います。東大紛争はそもそもの出発点は単に寮費値上げへの反発です。その値上げも大学側の言い分はもっともで、学生側の言い分はお粗末なもの。なのにそこにいろいろな者が便乗してああなった。おかげで大学はロックアウトを続け、今の大学生なんかよりも遥かに勉強もせず、そのまま大学を卒業した。というより大学に追い出されたと言った方がいい。もう半世紀以上すぎたのだから、そろそろそういう客観的事実をもとに、現代的視点も込めたドラマ内容にして欲しい。まだ団塊の世代に対する遠慮があるのかもしれないけどね。
寅子たちが苦しみながら引き出した判決文がちゃんと後々の土台となっていくのが見えてホッとすると同時に、たまたまかもしれないけれど今日が長崎の判決が出る日で今なお続いていることに気が重くなる。百合が散歩と言われて嬉しそうだったのは航一を旦那様と思ったからかな。近すぎない介護するにはちょうど良い関係で、寄り添ってもがいてくれる家族だからこその幸せそうな晩年で良かった。先週も日米安保に少し触れていたから、激動の戦後をやるんだろうなとは覚悟していたけれど汐見とヒャンスクの娘が関わるのか。普通に右寄り左寄りの授業が繰り返される、ある意味自由過ぎる高校生活を知っているだけに薫が純粋だったのだろうというのは想像がつく。だから自分の出自を知った時の衝撃はどんなだっただろう。ただ学生運動に身を投じていても、その後は普通の暮らしに戻った人たちが大半だった。女性は高卒か短大を出て、花嫁修業をして、結婚退職で年金は一時金でもらう、が一般的だった時代。のどかの毒吐きには納得感と懐かしさで変な感覚だった。
原爆裁判については、とりあえず自分の力でやれることをやるしかない。各々の力が集まって、主権者たる市民、立法府たる国会、行政府たる内閣が動くのを期待するしかない。ヒャンちゃんの娘は学生運動か。この時代が若者の良き時代のように語る団塊の世代の人がいるけど、多くの学生にとってはただのファッションにすぎなかった。読みもしないマルクスの本を片手に、フォークギターをかきならして、ヒッピーの真似をしただけ。実際、マルクスやローザ・ルクセンブルクの話を振ってもちゃんと読んでないのが丸わかりだったしね。暴力がいたるところにあり、それは今の日本人のDV気質の元になっている気がするし、そこら中に煙草の吸殻と痰を吐いた跡があり、川は臭いし黄土色の泡が浮き、空気はスモッグで目がチカチカする時代。ある意味、現実と理想が一番乖離していたんだから、ここからそういうリアルさも表現して欲しいね。昭和は40年代になっても変化と激動の時代だったのかがわかるし。
原爆投下は国際法違法であるとし被人道的な被害を受けた賠償は個人にはないけれどこれは国会やもっと大きな場所で扱われるべきだとした原爆裁判の判決文は実際のものだと知りとても感銘を受けました。原告が5人なわけがないし、それと対峙する国家の代表が1人でいいわけがない。法律と照らし合わせた時の限界を超える思いが詰まった素晴らしい判決文でした。世の中に広がったらいいのに。法は時に残酷で弱者が切り捨てられてしまうことが起こる。でもそこからが腕の見せ所ではないだろうか。このドラマの本気を感じる濃い15分だった。
辛いとか苦しいと言う人を無視しない。寅子の根っこの部分なんだろう。新潟にいる頃に優未が困っている人を助けるのは当たり前と言ったのを思い出した。寅子がもがいている時に黙って傍に寄り添う航一も。やり方は違っているけれど、寅子の周りにいる人たちはこの根っこの部分が同じなんだと思う。寄り添ってもらった側だった道男が自分の得手不得手をちゃんと分析して笹寿司を継ぐことを無理だと判断したのは素晴らしいことだと思う。合わせる顔がないと言っていたけれど、自分のできることをできる範囲で精いっぱい頑張るというのは、自分の進む先は自分で選択するというのと一緒にずっと描かれていたテーマだと思うから。原爆裁判での判決文の読み上げが長く描かれていて、ナレだけで終わると予想していたのを良い意味で大きく裏切られた。すごいシーンで心が震えた。
見事な論旨だと思います。主張はまったくその通り。三権分立の原則から言えば、ぎりぎりまで踏み込んだ内容ですし、60年前にこれだけのことを言えた司法はよく頑張ったと思います。この判決から60年たった今でも、一部の被災者は大して根拠のない基準のために救済されてはいないことを、国民は忘れちゃいけません。立法府である国会の議員たちが、いかにアメリカに忖度し、戦争中と変わらず国民をないがしろにして来たのかが分かります。たとえば少子化も年金もこのままなら大問題だということは、40年前から論議されていたのに、国会議員たちが先延ばしにして放置した結果が今だしね。知らないのもまた罪。国民が無知だとまた無謀な戦争になりかねないのだから。
昭和の終わり頃の生まれの私には原爆裁判なるものがあったことすら知らない。まだまだ遠くなったとは言い難い時代でもその頃を思い出したくない人も大勢いて、子供たちに伝えられなていない話がたくさんあったのだろうと推測できる。そんな中でも忘れたくても忘れさせてくれない大怪我を負った人たちもいる。自分たちだけ置いてけぼりにされるような苦しみをどこにぶつけたらいいのか。口惜しいことだろう。裁判がこじんまりしていてがっかり。もっともっと大きな反響があっていいのにと私も口惜しかった。
優未が頼った先は法律事務所で、今まであそこに出入りしているシーンとか見た覚えがなかっただけに意外だった。でも、花江と梅子が仲良くしている感じはしていたから、花江と来たことがあったのかも。のどかを蹴ってしまったことを聞いた時の轟とよねの表情が昔のことを思い出させる。寅子の周りにはいつも熱く抑えきれない昂るものを持っている人たちが多かった。あの質問にちゃんと応えられるのはトキオだけだ。感情を言葉を力をぶつけて、それは周りとの関係を変える。そしてその責任を負う。本当にそうだと思うし、誰もが心に留めおかなくちゃいけないことだと思う。よねが吉田に語った言葉にも心を打たれた。「仕方ない」というくらいの覚悟では背負いきれないほどの傷を負うということを、それがどういうことかを知っているからこその言葉。出る杭は打たれる。女性ならなおさら、それが被ばく者ならば…。法廷で読み上げられた手紙には涙してしまった。
ほのかはようやく大人らしい対応をしましたね。航一とカレーを作っていたというところに、二人の間にも会話があったのだろうことが推測できます。遠藤はいいことを言いました。日本はなぜか「怒るのは悪いこと」みたいに言われます。おそらく怒りと暴力がセットになりやすいからなのでしょう。でも怒りも正当な感情です。ただそれを表に出すなら、遠藤のいう通り、その結果による変化は自分自身も受け止めなければなりません。そして怒りは哀しみにも変わる。それは被爆女性の声に込められています。どう理屈をつけても戦争は怒りと暴力の応酬です。ならば国もまた遠藤の言うように結果による変化を受け入れなければならない。それが暴力装置である軍を動かす国の責任の取り方だと思うし、民主国家になった国民の代表である国会議員が差配するべきこと。要は新しい時代の新しい人権は実際に生まれるし、法はそれを遅れて追認せざるを得ません。法は常に時代よりも数歩遅れるものです。後追いでも構わないからそれに添って立法するのが民主国家の議員の役目だと言いたい。
ゆみは壊れていくおばあちゃんを見ているのが辛かったのだろう。お手伝いさんも大丈夫?と聞いてはくれるが、大丈夫だからね!とは言ってくれない。不安で悲しくて寂しくてどうしようもないところにのどかが見えてしまった。のどかを蹴ったことはそこまでやらなくてもとは思うが逆に言えば爆発させてくれる存在がいて良かったと思う。ゆみはそれほどまでにいっぱいいっぱいだったのだ。大好きな家族が壊れていく。当事者にしかわからないだろうな。
今まで過ごしてきた時間とか考えると一番に忘れ去られるのが優未で。おばあちゃんと呼ばれたのがどれだけ嬉しかったと言っても、気を使わなければいけない寅子よりも優未が先で。心根が優しいからこそ堪えているのだろうけれど、あんな風に払いのけられて傷ついていて一生懸命深呼吸をしている。のどかは関係性が優未より深いからこそ覚えてもらえているが受け入れられなくて関われないでいる。どちらも本当は辛い。でも優未から見たら覚えてもらえているだけ良い!となるからこその蹴りだろう。一方の原爆裁判、これも関係者全員辛い。どちらもある意味原因は病気であり、原爆を落としたアメリカだ。だがそこには確かに辛さがある。寄り添う地獄も突き放す地獄も隠す地獄も戦う地獄もある。どの地獄を選ぶかは本人だというよねの言葉はこの場面に限ったことではないと感じた。
まあ国側の言い分も正しい。国際法の拡大解釈はダメ。アメリカへの賠償請求は法的に無理がある。そして敗戦した場合に、国が国民に対して何が出来るのかなんて法規定もある筈がない。だからこそ敗戦国は自国の国民にすべき救済を法制化し、実施しなければならない。それが敗戦国の国会議員がすべきことだった筈。もちろん財源も必要になるし、経済政策などが優先されたのは仕方がないにしても、被爆者に対する国としての誠意が感じられなかったのは、当時の国会議員の責任だと思う。司法ができることは法の範囲のみ。でも傍論として意見を述べることはできる。さて寅子はどうするのだろう?そしてのどかは相変わらずガキのまま。困ったお嬢さんだ。
昭和の終わりごろでもまだ老人性痴呆って言ってたし、周りでコソコソと「あそこのおばあさんボケたってー」みたいに陰口していたり、頭のいい人ほどボケるだの、好き勝手言っていた気がする。当然介護申請だの保険だのそういったものも無かったし、正しい対応なんてものも知られてなかった。だから、のどかの反応が一般的だし、関係性が近ければ近いほど認めたくないからああなってしまう。否定したらダメだなんてことが一般的に知られるようになったのは平成になってからだと思う。甘えるほど慕っていた人に名前を忘れられるって、特にまだらの時期は辛いもの。のどかの心が心配だ。そして優未が率先して介護を手伝っているのも気にかかる。まだ航一が冷静に図書館でいろいろ調べたりして来てくれるのは心強いけれど、ある意味血のつながりがなく「百合さん」と呼ぶ関係性だからこそな気もする。そして、原爆裁判だがドラマだからって早く進むことはなく。ただただ被告である政府側をまっすぐ見据えるよねの目の力の強さが印象的だった。
日本は形としてはずっと継続している国家に見えるけど、戦前と戦後では国の最高法規である憲法もまったく違うし、1947~1952年までは「occupied japan」、つまり「占領された日本」であって、日本という独立国は国際社会で承認されてはいない。要するに無条件降伏を経て、事実上は違う国のようなものなんだよね。だから責任追求は法的にも国際関係的にも難しい。でも国の形がどうなろうと、国民が入れ替わったわけではないし、日々の営みは継続しているわけだから、国として国のために犠牲になった人は適切な立法を持って救済すべきだろう。そんな当たり前のことができないくせに、愛国心とか言うから政治家は胡散臭く感じるのだと思う。やることをやってから、愛国を語れと言いたくなる。この裁判の結果は知っているけど、令和の今でも国の勝手な定義で、救われていない被爆者がいることを忘れるべきではないよね。