※まだ評価はありません。
脚本・ストーリー 4.3 /5.0(85.4%) | 165位 /1195件中 |
キャスト 4.5 /5.0(89.2%) | 208位 /1195件中 |
演出 4.3 /5.0(85.8%) | 150位 /1194件中 |
音楽 4.2 /5.0(83.6%) | 139位 /1195件中 |
感動 4.2 /5.0(84%) | 72位 /1190件中 |
笑い 3.9 /5.0(77.4%) | 152位 /1190件中 |
スリル・興奮 4.2 /5.0(83.2%) | 122位 /1187件中 |
脚本・ストーリー 4.3 /5.0(85.4%) | 165位 /1195件中 |
キャスト 4.5 /5.0(89.2%) | 208位 /1195件中 |
演出 4.3 /5.0(85.8%) | 150位 /1194件中 |
音楽 4.2 /5.0(83.6%) | 139位 /1195件中 |
感動 4.2 /5.0(84%) | 72位 /1190件中 |
笑い 3.9 /5.0(77.4%) | 152位 /1190件中 |
スリル・興奮 4.2 /5.0(83.2%) | 122位 /1187件中 |
おふくさん、一番感情移入出来る、応援したくなるキャラクターだったので、ショックが大きい…
重三郎は、商才だけでなく、説得力も凄いと感じる。「江戸っ子」「粋」と言われたら相手の感情も鎮まる。
打ちこわしの背景にはもちろん飢饉があるわけだけど、政治の問題でもある。田沼も一橋治済や松平定信も米価高騰に無策という意味では変わらないしね。江戸期は石高制というお米が通貨代わりになった時代だからこそ、米高は石高が変わらない武士にはありがたかったし、商人はより投機的になった。庶民だけが置いておかれた。
でも新之助の考えには同意できないかな。奥さんの死は確かに因果を追えば国が悪いってことになる。けれどまず悪いのは犯人であって、それを許すなら国も許すべきだ。犯人も国も許さないならわかるんだけど。
まあこういうのは理屈じゃないんだろうねえ。出版という、言葉で伝える仕事の蔦重は、あくまで言葉にこだわる。だから新之助たちに旗を作らせ、スローガンを考えた。けれど暴力は言葉よりも簡単に伝播する。
そして悲劇は起こるんだろうな。
蔦重がパリッとした着物を着て長屋を訪れた時から嫌な予感がしていた。米を食べさせるなら店に来て食べさせないとダメじゃないかと思っていたら予感的中。ふくは近所の赤ん坊に乳をあげていたのにこんな仕打ちに合うなんてね、とよ坊まで死なせる意味はきっとそこまでしないと新さんの振り切れた仇討ちには繋がらないからなのだろう。田沼が悪いと大合唱が聞こえてきそう。ただ田沼を消したら問題は綺麗さっぱり無くなるのか?田沼は本当に悪なのか?いつの世も踊らされてはならない。
田安家に教わって作った醍醐なんて憎しみとか怨念とか入っていそうで恐ろしい。
毒が入っていなくても、何らかの体調不良は起きそうだ。
上様の体調不良は田沼の権威と完全に比例する。
このところの田沼の不人気どころか恨みは底知れないけれど、どれも天変地異のせいだから可哀想になってしまう。
いつの世もお天道様に振り回されるんだなと今を思う。
少しだけ周りよりも恵まれているからと他者へ優しさを分けてあげていたふく。
そのせいで子どもともども殺されてしまう。
感謝されこそすれと思うけれど、貧しいということ食べられないということはこういうことなのだろう。
犯人は自分と同じ境遇のもの。
同じように源内さんのそばにいて、細見を作っていた新さんが地べたをはって生きている。
足抜けしてどうやって生きていくのかと前に出てきたセリフが思い出される。
新之助の「この者は俺ではないか」というつぶやきはなるほどと得心するし、心が痛くなる。そうであれば確かに怒りを向ける方法がわからなくなるだろう。
でも苦しい中でもふくのように正しく生きようとする者がいたわけで、どんな理由をつけても人を殺した奴が悪い。
政治が悪い、世の中が悪い、そんなのいつの世だって、腹の中ではそう思っている奴は山ほどいる。実際、歴史をみればろくな政治はしてないし、世の中が本当に平和で安穏だった時代なんてない。けれど泥棒と人殺しが許される理由にはならない。だからこそ、やはりここはふくを殺した奴が悪い。
それはそれとしてケリをつけて、それからもっとおおもととなる国を憂うべきかな。
歌麿に自分らしい絵をと勧めるのは当然の流れなのだけれど、今まで人まねばかりしてきたらどうして良いのかわからないのはよくわかる。
自分らしさがどこにあるのか。
蔦重が勧めた絵は歌麿のトラウマを掘り起こしてしまったようで、亡霊のように自分の周りにまとわりつく母と男に怯え、恐れ、取り乱す姿は見ていて辛いものがあった。
師匠の下で少し穏やかな顔で花を愛で描く姿に少しホッとした。
一方の城内は穏やかじゃないですね。
定信も戻ってきて、何やら画策しているようだし、大雨による利根川の決壊も絡んできて、また不吉な予感が。
蔦重は歌麿に新しい名前と人生を与えた。過去も知った上で誰よりも幸せになって欲しいと思っていたし、世に売り出すのは自分だという自負があった。その上でもう一段上に行くにはと考えての枕絵だったのだろう。それは過去のトラウマを上書きするような策だったのかもしれない。でもそのトラウマが大きすぎて囚われてしまうことまでは想定外だったのだろう。このままでは歌麿が壊れてしまう!と思ったところに昔の恩師。石燕といた時間は子供の頃の歌麿のエスケープだったのだろう。ここで石燕に預けることができて良かった。
鳥山石燕とくれば妖怪好きならば誰もが目にしたことがある「画図百鬼夜行」の作者。私も図書刊行会のものを持っているけど、石燕の前に画図として妖怪を定型化したものはないらしい。つまり初めて妖怪を視覚化させたのは石燕だと言っていい。
このドラマの歌麿は心に妖怪的なものを抱えているわけで、それをどういう形にせよ、呑み込んでしまうには、石燕という人物はもってこいだろう。
史実では石燕は恋川春町の師匠でもあるし、本名は佐野の姓なんだよね。まさか佐野大明神こと佐野政言と因縁が、なんてことはないと思うんだけど。
怒りが過ぎると目には目をと同じ苦しみを返すことばかり考えてしまいがちだ、そんな中で蔦重の仇討ちは少々生ぬるいかもしれない。だけど嘘か本当か分からない話に乗せられて佐野大明神ができあがってしまった世の中で、相手も死んでしまっているのに呪うことだけしかできなくなってしまった誰袖を呪いから解放して笑顔にさせたことは大きな功績だろう。みんなもいつのまにか佐野のことなど忘れていつもの日常に戻った。こんな風に世界でもいつか争いがなくなったらいいのにね。
京伝は隠れて努力するタイプだったのだな。
春町がこちら側だと受け入れるシーンは滑稽ではあったけれど少しうれしくなった。
これで堂々と他の人たちの助けを得られるとホッともした。
意次の仇討ちが上手くいったのかどうかは治済の動きを見る限りわからない。
ただ、蝦夷の上地は進みだした。
蔦重の仇討ちはかなり粋だし大成功と言えそうな気がする。
誰袖は笑ったし、世の中から「佐野大明神」を追い出した。
間違ったうわさは否定するより異なった楽しみを与えた方が消えるということなんだろうな。
それだけ人というのは忘れっぽくて流されやすいということだ。
劇中劇もなかなか凝った仕様になっていて、バカバカしさもわかりやすくてとても楽しめた。
山東京伝、大活躍ですね。何でもできるからこそ、ひとりで完結させることができる。でもそれは陰でとんでもない努力があるわけで、器用貧乏のような見方をされることが多い京伝だけど、それはあらゆる分野へのチャレンジと研鑽がベースにあるということなのだろう。それには同感だね。
京伝を中心とした劇中劇が面白かった。役者さんたちも楽しんでやっている雰囲気が伝わってきた。
京伝を演じる古川雄大さん、なかなか多才ぶりを発揮し、良い芝居でした。
誰袖も少し救われたかな。
意図的に噂を流し、意図的に人を貶める。
今の時代だって同じようなことがあるなと思ってしまう。
意次の復讐は意知のなしたかったことをなすこと。
志は人に宿るけれど、人が亡くなっても失われないと治済に宣戦布告したところは少し感動した。
でも、これって治済が次の一手を打とうと考えるきっかけになってしまわないだろうか。
一方の蔦重はどういう方法をとるのだろう。
閉鎖的で口々に伝わることが本当になってしまう世界。誰かが石を投げればみんなも投げるし、誰かが持ち上げればみんなも拝む。歴史上の人物も濡れ衣だ〜と叫びたい人はたくさんいるのかもしれない。なにをしても変わらない事実は意知が死んだということ。逆縁に苦しむ田沼に塩を塗るかのように近づく一橋、息子の体はなくなったが心はいつもここにいる。誰の手も届かない自分だけのものになったという田沼が強くて悲しい。どんな時代になっても逆縁の苦しみだけは変わらないな。
江戸時代は固定化した階級社会だから、庶民と政を担う人たちには今よりも更に大きな距離がある。だから江戸庶民は常に権力者には批判的な面を強く持っていた。でもさすがに直接将軍を批判はできないから、時の老中とか奉行なんかをやり玉にあげる。だから「四谷怪談」とか「忠臣蔵」とかの歌舞伎の演目にも政権への批判とか皮肉が込められている。
問題は現代と違って、庶民にはまったく選択権がないこと。人事も政策も影響力を行使できない。だから何か事件が起これば、それに便乗して批判や皮肉を込める。それが江戸庶民のやり方。
なので佐野政言を持ち上げ「佐野大明神」なんて囃し立て、田沼を攻撃しているように見えるけど、庶民の本音は田沼だろうが松平だろうが、どうでもよかった。どうせ、庶民にはまったく選択権がないんだからね。誰でもいいから米の高騰をなんとかしろよ、と直接的には言えないから、佐野の真実なんてどうでもよくて、ただ反権力の象徴として祭り上げた。
そこのところを理解するのは、なかなか難しいけど、江戸時代の本質はそこにあると思う。
政が絡んで難しくなったがまだまだ面白い
意知としたら最後まで気にかけてもっと報いてやりたいと目をかけていた佐野に殺されたんだから浮かばれないよね。佐野もそうするように仕向けられたとしか思えなくてこちらもかわいそう。元々介護やなんやでいっぱいいっぱいのところに意知の嘘のような裏切りを知りもう全てがどうでもよくなってしまったのではないか?馬鹿正直に生きていれば報われるってもんじゃない。誰袖のように逞しくなきゃ世の中は渡れない。それでも不意の不幸は訪れる。幸せいっぱいのかおりの笑顔が辛かった。
自分が置かれている境遇に噂話、そこにまことしやかに吹き込まれるデマ。
人の心って、本当に小さな綻びが些細なことの積み重ねで疑心暗鬼に陥るんだよね。
今の世の中でも普通に起こっていること。
元はといえば佐野の系図を池へドボンとやった意次の失態とも言えるけれど、イライラしているところへ渡してしまった意知の失敗でもあるんだよね。
本当に小さなことが巡り巡ってとんでもないところへ波及していく。
史実で確かなことは、佐野が意知に切りつけたことと、意知が亡くなったこと。そして佐野が切腹したこと。
それぐらいなんだろうけれど、意外とこういう風に小さなことが積み重なったのかもなと思わされる。
意知を失った意次がどんな表情をし、どう動くのか。
田沼家に裏切者がいそうなところも気になる。
佐野政言による田沼意知の殺害だけど、このドラマ上では政言が陰謀に乗っかってしまったことはあるけど、そもそも田沼意次が佐野家の系図を粗略に扱い、政言への配慮も欠けていたことが原因でもあるよね。意次の驕りとも言えるかな。
いずれにせよ史実として政言は「世直し大明神」と崇めるものが出たほどだし、田沼政治への批判は武家だけでなく、庶民にも根強くあったのは確か。だからといって後の寛政の改革が正解だったとは言えないけどね。
これで蔦重の献策も無駄になり、誰袖の思いも儚くなった。田沼時代も終わりが見えてきた。でも江戸町人文化の華、文化文政期もまもなくだ。
蔦重の母親はやっぱり蔦重と同じように人たらしだったんだ。
あの親にしてこの子ありという言葉を思い出してしまった。
アイデア豊富で才のある人たちの中に入ったら、真面目で堅物と呼ばれる人が肩身が狭く感じるのはわかるような気がする。
ていが出ていこうとしたのも仕方がないと思う。
ただ、それを止めた蔦重の言葉がとても良かった。
あんな風に言えるようになったんだなとも思う。
瀬川とはまた違った同士のようなていだから素直に言葉にできたのだろうか。
形だけの夫婦から本当の夫婦に。
良かったねと言いながら涙する歌麿が少し切なかった。
夫婦って、互いに見つめあうだけの夫婦もいるけど、共に同じ方を向いて歩む夫婦もいる。蔦重とていはその後者。個人的にはその距離感の方がいいと思う。
瀬川は確かにいい女だったし、華やかさもあった。でも蔦重に合うのはていの方だなって気がする。
問題は歌麿。「生まれ変わるなら女がいい」というセリフからして、蔦重に思いを寄せているのがわかる。ゲイとか言うのではなく、彼の生い立ちを考えれば、男も女もないんだろうけど、蔦重は違うからね。歌麿の生い立ちをあんな風に描いたのはこの伏線でもあるわけだ。
よく考えられた脚本だなと思います。
米の値段が去年の2倍だって!?今とそっくりじゃないか!出し渋って値を釣り上げているのもおんなじ、いつの時代も泣くのは庶民だね。米も作り出せないって蔦重は言っていたけど、だからこそできることを考えるところがかっこいいよね。周りをどんどん巻き込んでいく蔦重に、ていさんはいつのまにか惚れてたんだろうね。そして似つかわしくないと身を引こうとした。いじらしいねぇ。ていさんが笑えば歌麿が泣く、モテモテだ。それにしても引き合いに花魁を出すあたり、ていさんは誰かから何か聞いたのかねぇ。
鶴屋との和解がここに出てくるのか!天変地異すら機転一つでそれこそ金が降ってくるような出来事にしちゃうんだから蔦重はすごい。気取ってる町はよく言えばみんなが品良く、悪く言えば停滞したりするもんだ。そこに灰でもなんでも面白がってしまおうとする蔦重がくればまた違う化学反応が起きる。日本橋としたって悪い話じゃないよね。嫌っていた吉原に自ら出向き暖簾をプレゼントする鶴屋の粋に感動。メガネなしのていに感嘆。見せ場がたくさんあって飽きないね。
浅間山の大噴火による降灰の影響が日本橋にも出ていたけれど、本当に大変なのはこれからなんだよね。
少しだけ新之助夫婦が映ったからちょっと心配だな。
そして意知の若年寄への話が上様から出たり、誰袖へ渡した扇子に「死」の文字があったり。
いよいよ近づいているんだなと思ってしまう。
蔦重は困りものの灰ですら自分の糧として、自分を表現する道具にしてしまった。
本やお店への情熱、嫌なことでも遊びに変えて頑張れてしまう性格。
あの鶴屋さんからも笑顔を引き出し、おていさんをも強力な協力者に変え伴侶としてしまった。
婚礼の場での鶴屋さんからの暖簾のプレゼントには本当に感動した。
鶴屋の対応はなんだかんだで江戸っ子らしいかな。けんかっ早くて、意地を張るけど、野暮を嫌う。あそこで暖簾を用意するなんて、なかなか粋だと思う。
蔦重とていの関係はまだまだこれからというところだけど、徐々に心を通わせていければいいね。
問題は誰袖だ。いろいろと危ういところに踏み入れ、危険な雰囲気がぷんぷんする。彼女がこの後、幸せなるとは思えない。過ぎたるは猶及ばざるが如し、と言う。ちょっとやりすぎかな。
あの頃町人はわからないけど商売のために政略結婚とかよくある話だったんじゃないの?だから本屋のために結婚しませんか?っていうのも今より突飛な発想ではない気がする。でもその相手が前の夫を狂わせた吉原者っていうのが気に食わないんだろうね。まぁていさん自身もど真面目っぽいし水と油。でもそこからどうやって夫婦になっていくかってところが見どころになっていくから面白いんじゃないの?あの横浜流星を見かけ倒しと言っちゃう大河ドラマ、恐るべし。
蔦重とていさんって目指しているもの、願っているものは同じなんだよね。
それがどうすれば伝わるのか。
一度男に騙されているだけにガードは相当堅いだろう。
あんな風に商売のために夫婦になっちゃいましょうなんて、さすがに普通は無理だと思う。
ただ、恋愛感情なしで仕事を発展させるって一点突破を目指したのは間違ってない気がするんだけれどね。
どこかで裏表なく書籍を愛していることが伝わればすべて上手くいくんだろう。
そして田沼の坊ちゃん、いよいよ危ない感じになってきた。
松前の弟君だけでなく、松前公本人登場。
えさに食いついたのか、食いつくふりをしているのか。
あんな危ない人物と取引だなんて誰袖花魁にだって危害が及ぶのでは。
気が気でなくて、ハラハラが止まらない。
ていに対しての蔦重の言動は、とても合理的かもしれないけど、心情として思いやりに欠けている。良くも悪くも蔦重の基準はすべて吉原なわけで、町娘として育ったていには受け入れがたいものがあるに決まっている。
江戸時代、女性の地位は低かったけれど、地位の低さがイコール弱いとはならない。武家ならともかく町人は「銘々稼ぎ」といって、夫婦でもそれぞれ仕事を持ち、自立している者が多く、夫婦のものでも相手が何か自分のものを盗めば罪に問うことができた。三行半といわれた離縁状だって、女性の側から請求するケースも少なくない。離婚率も現代よりはるかに高いしね。
だからいろいろ不自由だから唯々諾々と後添えになんていうほど江戸娘はおぼこじゃない。脚本家もそこはわかっているんだろうね。だから本屋を続けるということで二人の距離が近づくようフラグを立てているんだと思う
吉原もんと蔑まれ雨の当たる外に座らされるところは吉原の地位を思い知らされるようでとてもよかったです。中にいる人にとっては世の中になくてはならない場所(男たちにもそうだし、売られるしかなかった娘たちにもそう)だと思っているが、外に人にとってはそうではない。前に蔦重が言っていた女の股で食わしてもらっているところなのだ。そこから日本橋の本屋が生まれる。痛快じゃないか。鶴屋の隣ってところがまた面白い。未来の嫁さんとの対面も一筋縄ではいかない気配、楽しみだ。
吉原者は四民の外、このところ忘れていたが葬式の様子で痛いほど思い出した。
個人や遺族は良くても、参列者が良しとしない。
そんな吉原者の作った本がどれだけ素晴らしくても、やっぱり第1選択にはならないのだろうな。
1つしか手に入れられないのなら、身元確かな物に手が伸びるのは仕方がないのかも。
今の蔦重に足りないのは身元の確かさなのかなと思う。
それが日本橋ということなのだろう。
吉原を捨てて出ていくのではなくて、吉原者でも日本橋へ行けるという前例を作るためでもある。
親父さんに蹴落とされて、血を流しながらも一歩一歩上って説得するくだりは心底カッコが良かった。
江戸土産は日本橋でというのが、この時代の定番だからね。田舎者にとって吉原は敷居が高い。花街に行くなら深川とか岡場所になる。だから日本橋に店を出すのにこだわるのは正解。
ひとつだけ脚本として気になるのは、忘八だと言ってるんだから、親孝行なんて言葉を使うのはどうなんだろうか。「孝」は八徳のうちだからね。それなら忘八にだって八徳はあるって、並べ立てるか。逆に八徳は無くても、こういうものがあるって違う例えを出すかした方が、筋が通ると思う。
今で言う出版社の忘年会のようなものって宴会を開いたのが蔦重が始まりならすごいことだよね。自分の仕事にプライドを持っている人の集まりだからぶつかることもあるだろうし、化学変化が起きて今までにない何かが生まれるかもしれない。春町だって一皮剥けたじゃないか。蔦重はその化学変化を起こす天才かもしれない。心配なのは誰袖花魁だね。身請けをせがむ姿は哀れでもある。いくら着飾ったってやることは一緒、地獄の中にいるんだなと再確認してしまう。幸せになってほしいな。
春町のこと、喜三二も歌麿も気にかけていて、ちゃんとフォローしてくれる。
蔦重の周りは才能の集まりでもあるけれど、気の良い人たちの集まりでもあるんだよね。
文化というかそういうものを愛する人たちの集まり。
だから春町が拗ねて筆を折っても、きっと戻ってくるだろうと信じているし待っている。
とても真面目な人だけれど愛される人なんだよね。
それに応えてふんどし一丁で踊る姿は少し滑稽だけれど真面目さが面白さに化けた瞬間かな。
それにしても春町文字。面白かったな。
江戸の諧謔がとてもよく描かれていたように思います。階級社会が定着している時代だけに、こういった即興的な皮肉やナンセンスは、今のラップに近いものがあるように思います。世の中をチクリと皮肉るというのは体制批判にもつながるわけで、田沼失脚後に寛政の改革でこの宴会にいた多くの者が処罰されるのも、そのためですからね。
一方で松前藩をめぐる陰謀ですが、誰袖までもそれに加担するとは。意知に身請けさせて、どうしようっていうのかわかりませんね。歴史の陰に女ありと言いますが、何を考えているのでしょうか?
蔦重のバックグラウンドはやっぱり吉原ってところが大きいのだろう。客をどうしたら喜ばせることができるか、どうしたらたくさんの人が来てくれるのかを考えることができる場所にいたっていうのが大きい。思考が柔軟でいいも悪いも混ぜこぜの世界を乗りこなすことができる体力とへこたれない心があることが強みだろう。いいっすねー俺それ見たいっす、なんて言われたらいい気持ちになっちゃうよね。春町は真面目だから戸惑っているのだろう。これで一皮剥けちゃうんじゃないの?
錦絵を作るということが絵師や彫り師の腕だけではなくて、どれだけ手間がかかることなのか何となくはわかっていたけれど、なるほど指図も大切なのか。
本当にたくさんの人の力が結集して初めてできることだったのだ。
蔦重が作るにはまだ経験も知識も足りなかったということだ。
でも、歌麿が興味津々で学んでいたからどんどん良くなっていくんだろうなと楽しくなってくる。
絵師が作家をやったり逆もあったりというのも初めて知ったから、みんな多才だったんだなと感心する。
春町が拗ねてしまったけれど、そこでのタイミングの良い放屁には笑ったし、それを狂歌のネタにしてしまうのがすごい。
知っている和歌が屁バージョンになっていたり、ものすごい知性あっての遊びだよね。
春町先生が拗ねて筆を折ってしまったけれど、本当にもう書かないつもりなのか心配。
なかなか強烈な松前道廣ですね。「遅れてきたもののふ」と言うよりも、ただのサイコパスですね。
松浦静山の有名な著書「甲子夜話」にも道廣がロシアと内通していて、永蟄居となったことが書かれていますし、蟄居中にも関わらずいろいろやっていた困った人物のようですが、戦国時代のように派手な合戦などが描けない時代だけに、ちょっとした刺激と変化をつけるための演出というところでしょうか。なかなか上手い出し方だと思います。
恋川春町がへそを曲げてしまいましたが、彼は武士ですからね。武士でありながら町人文化を盛り立てたというのは、ある意味で相容れないもの同士の板挟みになっている存在とも言える。田沼失脚後の春町の境遇を考えると、それを予感させるシーンでもありました。
市中の本屋が蔦重のところの本を仕入れる言い訳ができて蔦重のところの本が一気に出回り商売も一気に広がる。いい本を作っていればこその展開、運が回ってきたというより蔦重のビジネスの才覚がすごいってことだよね。大河ドラマらしく御上の上の方の話もちゃんとやってとてもバランスよく今までの歴史好きなファンも取りこぼさないようにしているところがすごい。狂歌の集まりも面白かったねー。そこで蔦のからまるって名前を咄嗟に出す蔦重の粋、かっこよかったなー。
見てて震える
狂歌というものがあるのはもちろん知ってはいたけれど、なるほど流行る訳だと思った。
洒落ていてエロなんぞもぶち込んで、それでいて顔色一つ変えず大真面目にやっている。
その姿がとんでもなく滑稽で洒落ていて面白い。
本歌取りなんていうのもサラッとやってのけて、知識があってもなくてもそれ相応に楽しめる。
その場のノリだと言われるのもわかるけれど、それをどう本に落とし込むのか。
見ていればこそ面白いという雰囲気のようなものを表すことこそ蔦重の真骨頂のような気がする。
祭の時のごとくやってくれそう。
狂歌の流行はいかにも江戸らしいね。識字率は高くなったけど、庶民にとっては武家や公家がやるような敷居の高い趣味は敬遠される。でも狂歌は敷居が低いし、その中にちらりと諧謔やナンセンス、そしてエロをぶちこめるから、江戸の庶民にとってはちょっと粋な遊びになる。
蔦重も狂歌からみで大田蜀山人と知己になり、次は鶴屋と組んでる山東京伝ってことになるのかな。どんどん陣容が固まってきて、あとは歌麿のブレイクと写楽の登場が待ち遠しいです。
鱗形屋から蔦重に版木が渡されうちの本を読んだ子が本屋になるって感動していたけど、これはこの時代なら胸アツなんだろうなと思った。だいたいが親の家業を継ぐ時代、それが当たり前だったし身分はなかなか越えられない。市中で大きな顔して商いしている鶴屋だって世襲だろう。吉原の旦那衆だってそう。その中で自分の好きな道を見つけて頭角を表している蔦重は眩しかったろうね。そこが出る杭となって打たれるけど、跳ね除ける才覚がある。爽快だね。
鱗形屋は店じまいをするにあたって須原屋から細見のいきさつを聞く。
それで今までのわだかまりが溶けていく様子は詳しくは描かれずとも見えるようだ。
元々馬の合う2人であり、才能を認めていればこその関係。
そこから周りにバレないように春町をかっさらう算段を付ける様子がとても楽しい。
焼け残った1枚の版木を大切に抱いて涙を流す蔦重と、その訳を聞いて同じように涙する鱗形屋。
初めて買ったその本がどれだけのものを支えてきたかをドラマを見てきた我々は十分すぎるほどわかる仕掛け。
2人の涙を見て心がじんわりした。
ついに鱗形屋退場ですか。まあいつの時代も商売は栄枯盛衰。それについては仕方がない。
そして恋川春町も蔦重の元へ。蔦重のところに少しずつ人材が集まってきましたね。劇中で名前が出たから、次は大田南畝でしょうか。
でも鱗形屋はまだよかったかもしれません。松平定信の寛政の改革時代になれば、蔦重はもちろん春町も歌麿も処罰されるし、朋誠堂も藩主にお叱りを受けてやめてしまうんだから。まさに田沼時代と共に花開き散る。
今はつぼみの時期を楽しみましょう。
いくら子供が憎いからって言葉で呪いをかけないでほしい。親の言葉は体の奥まで染みてしまう。自分が底にいるからって子供まで浮上することを許さない、言葉で呪いをかけて未来永劫縛りつける。誰も幸せにならないんだよ。死なないから生きてる、そんな捨吉がかわいそうで涙が止まらなかった。蔦重と出会って良かったね。べらぼうではそんな捨吉が歌麿として後世まで世に残るなんて素敵な話に昇華させてくれるのか、世の中捨てたもんじゃないと思えて嬉しい。
唐丸の今と生い立ちがわかったけれど、それは本当に辛いものだった。
自分を罰するために身を売る。
そして早く死ぬことを願う。
なんと悲しくて寂しいことだろう。
蔦重ではないが、死んだ人たちには申し訳ないが生きていて良かったと思う。
そして、生きているからこそちゃんと生きて欲しいと思う。
出ていってしまった人の人別を自分の物として、蔦重と新しい人生を生きる。
歌麿との作品が出てくるのが楽しみだ。
てっきり唐丸は東洲斎写楽として復活するのかと思っていたら、喜多川歌麿としての復活でした。
まあ歌麿の前半生はよくわかっていないし、ありっちゃありかな。もっともこの時代の浮世絵師なんて、ほとんどがよくわかっちゃいない。わかっている部分も大田南畝の「浮世絵類考」によればというのがほとんど。だからこういうフィクションが成り立つ。
歌麿ほどでもそうだから、浮世絵が偉そうな芸術というよりも大衆文化だったというのがよくわかりますね。
ここからの歌麿の活躍が楽しみです。
それにしても朋誠堂、おバカでいいね。江戸らしいどこか刹那なナンセンスさが最高です。
蔦重のアイデアの豊富さには驚いてしまう。
たしかに自分の関わったものって、ひとに話したくなるし、薦めたくなるし、何なら自腹を切ってでも配りたくなるものだ。
それが本当に良いものなら人づてに評判が評判を呼び、どんどん売れることになる。
それが一過性の流行ものならともかく入門書や指南書の類なら、かなりの期間堅調に売れ続けることになる。
人と人がつながる拠点にいる蔦重はとても良い所にいるといえるし、それを活かした。
そして、良い版木を彫る人材まで抱え込んだ。
市中の本屋にとっては脅威だろうな。
そのうち蔦重と組もうとする人たちが出てくるだろうか。
次郎兵衛が指摘した通り蔦重の顔つきが変わってきました。本を出せて嬉しいのは今もだろうけど、この商売を大きくするにはどうしたらいいかってところまで来たのでしょう。田沼の方でも源内のアドバイス通りの町が潤い賑わって、蔦重の耕書堂もすくすく伸びている。二人が別の場所からその種を蒔いた源内さんを思い偲んでいるところがグッときました。報われる作りにいいですよね。別れがあれば出会いがある。戻ってきてくれないねーかと願った人は現れるのか?楽しみだ。
江戸時代末期の日本の識字率ってものすごく高いからね。江戸に限らなくても、地方に目を向ければ商売はできる。江戸は上方などに比べて侍が多いし、それが当たり前の連中は蔦重の狙いがぴんとこなかったのでしょう。
田沼意次ですが、かつてとは評価が大きく変わった人物ではあるけど、随分と政治力が弱いし、隙が多いね。そんな人物ではなかったように感じるんだけど。でもこの時代から先の御三家は策略ばかりで実がない。それが江戸時代を終わらせたという一面もあるなと痛感させられます。
自分の中に溢れんばかりのアイディアがあってたくさん広めたいのに何をしてもうまくいかない。政府の要人である田沼にもハシゴを外されやぶれかぶれだったのだろう。そこに手袋の秘密を明かされたくない輩が幽閉したっていうのが今回の説。心身ともに弱っていたところにタバコを使って薬漬けにでもしたのだろう。もっともっと成し遂げたいことがあったろうにと思うと無念だよね。蔦重の才能を伸ばしてくれた恩師のような存在の源内さんがここで幕を引いた。狂ったようにこの世を去り、源内さんはあの世で何を思うのだろう。