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脚本・ストーリー 4.3 /5.0(86.6%) | 129位 /1198件中 |
キャスト 4.5 /5.0(90.4%) | 182位 /1198件中 |
演出 4.4 /5.0(87%) | 123位 /1197件中 |
音楽 4.3 /5.0(85.2%) | 111位 /1198件中 |
感動 4.3 /5.0(86%) | 58位 /1193件中 |
笑い 3.9 /5.0(77.6%) | 145位 /1193件中 |
スリル・興奮 4.2 /5.0(84.8%) | 102位 /1190件中 |
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スリル・興奮 4.2 /5.0(84.8%) | 102位 /1190件中 |
書籍に対しても規制がかかりましたか。
黄表紙や錦絵は贅沢品だということなのだろう。
それとも、黄表紙などなければ春町先生の死は無かったとでも考えたのだろうか。
検閲が面倒くさいほどに作品を持っていくというのは、さすが蔦重も考えたもの。
前回の頑なだったところが少し取れて、以前のように生き生きとした顔に戻りつつある。
京伝先生との関係も修復されて良かったなと思っていたところできよさんの死。
前回にすでに紅いものが見えていたから覚悟はしていたのだけれど、、、悲しい。
江戸時代、蔓延していたとは聞いていたけれど、あの時代ろうあ者が生きていくのは並大抵のことではなかっただろうし、洗濯女だけではすまなかったのだろう。
せっかく手に入れた幸せを、それまでの不幸が飲み込んでいくようで本当に見ていて苦しかった。
歌さんだって、やっと穏やかな気持ちを手に入れたというのに。
死んだことを受け入れられなくて、ずっときよさんを描き続けるその手元にはのちの美人画の走りとも呼べそうな絵の数々。
蔦重に抑え込まれてもなお暴れていたけれど、そのとてつもない悲しみの淵からあの美人画たちは生まれたのかと思うと見方が変わりそうだ。
きよさん、死んじまったか。演じる藤間さんの芝居もっと見たかったなあ。いろいろ残念だ。
それにしても死因は梅毒か。まあ江戸にすさまじく蔓延した病気だしね。江戸の墓地から出土した遺骨を調査した結果から、医学的に推論して江戸在住者の約70パーセントが梅毒に罹患していたという話もある。これまで時代劇ではあまり表現してこなかったところだけに、なかなか強烈でした。
ドラマ中で勝川春朗の名前が出てきましたが、後の葛飾北斎ですね。くっきーさんが演じるという話ですけど、さてどんな北斎になることやら。
定信がそうくるならこっちはこうしたらいいとなかなかやりますね。まぁ日本橋を渡るべからずと書いた札を抜いて入ってきた男ですからそのぐらいのことはするでしょう。知恵比べですね。そして真正面からのジャブも入れつつ、平蔵を抱き込むという技も使ってくるんだから商人は隅におけない。御上も質素倹約はいいけれど、それで飯を食ってる人のことは考えないんだよね。ああ言えばこう言う理屈ばかりで弾かれた人のことを思っていない定信に明るい未来はないでしょうね。
蔦重は田沼様のこと春町先生のこと吉原のことなど背負うものが多すぎて意固地になっているように見える。
それは持たざる者が持てる側に回ってしまったという側面もあるんだろうな。
辛いことも苦しいことも笑って乗り越える吉原流がここにきて見えなくなっている。
本来、政演の言うように面白くてなんぼの黄表紙。
それをふんどし憎しで根本が抜け落ちてしまっている。
今まで何があっても周りの助けも借りて柳のようにしたたかにしなやかに軽やかに生きてきた蔦重が、その良さが見えないところに危うさが見える。
ふんどしの神も春町先生の死にこだわって突き進んでいるようだし、生真面目が過ぎると始末に悪いということなのだろうか。
自分を高く見積もりすぎじゃないかというおていさんの一言に尽きたこの回、いつのまにか圧強めの脅しが入る主人になってしまいました。ただね、これは春町先生を追い込んだ罪滅ぼしって面もあると思うんですよ。本で世の中を変えることができると本気で思っていたからこその強気、ただ空回りしてるし脅して楽しい世の中がやってくるかってこと。そして定信も‥だいぶ方向性は間違ってるんだけど春町の命に応えようとしている。一つの失われた命が波紋を広げる。丁寧な描写がいいなと思う。
確かに蔦重は前のめりすぎるね。江戸の風刺は軽妙洒脱さが持ち味。むきになって、喰って掛かる野暮を笑ってやるのが江戸の粋。たとえば蔦重は吉原の内側にいた人で、京伝は外側で遊んでいた人。それぞれが吉原を支えていた人たちだとしても、支え方はまったく違う。京伝の気持ちもよくわかる。
山東京伝は絵師もやれるし、戯作もやれる。現代の評価としては器用貧乏のように扱われることも多いけど、その多才さは彼の美的感覚とかバランス感覚の良さを感じさせるし、いわゆる「割り勘」の祖と言われるところなどは、合理的で醒めた近代性を感じさせます。興味深い人物ですよね。
そして松平定信ですが、鈴木越後の羊羹も禁止ですか。まあ現在の価値に換算すると一棹5万円ほどだとする記事がありました。それが本当なら確かに高価だけど、経済は高価なものも買う人がいるから回るわけで、朱子学的な定信にはそういう発想は生まれないでしょうね。そして朱子学の影響が強い水戸学が明治維新の理論的背景にあったことを考えると、蔦重の黄表紙以上に皮肉です。
本当に真面目な春町先生ならではの最後。
追い込まれながらも、武士としても戯作者としても最高の最後を真面目に目指したのだろう。
自分のことをわが藩の誇りとまで言ってくれている殿にこのままでは迷惑がかかるのは間違いなかっただろうから、彼のことだから必死に考えたんだろうね。
切腹はすぐに思いついても、まさか豆腐の角でとは恐れ入りました。
慟哭していた定信はどういう心境なのだろう。
死までも自分で演出してしまった春町先生を惜しい人を亡くしたと思っているのか、それとも死んでまで愚弄してると思ったのか。
蔦重は豆腐の桶に春町先生の作品を入れて並べていたけれど、さすがにちょっと様子見た方が良いのではとハラハラしてしまう。
春町という男ならこんな最期になるだろうと思ったいた。真面目だしこれ以上殿に迷惑をかけられないと思えばあり得ると。しかし豆腐までは思いつかなかった。ご遺体の豆腐を取り切らなかった御新造さんもなかなかだよね。そして春町の作品を豆腐を入れていた桶に入れて売り出しちゃう蔦重もすごい。しゃれや粋は塩梅が難しい。今や泣かぬなら殺してしまえの定信に、春町の死はどう響いたのだろう。慟哭にまだ人の心が残っていたと少しだけホッとした。
実際のところ、恋川春町がどう亡くなったかはわからないわけだけど、このドラマの春町としては、とても彼らしい頑固なまでの律義さと戯作者としてのプライドを感じさせた最期ですね。
そもそも文化という面だけで考えると、江戸の文化は侍から始まり、町人へと変化しました。定信の改革はそれを侍に戻そうとするものだと言えます。でもすでに文化が経済と結びついた近世では、アナクロだし、経済を縮小してしまう悪手です。今の日本と同じで、もう小手先の改革ではダメな状況なんだよね。
その定信も幕臣としてではなく、個人としては黄表紙のファンであり、春町の死を悼むところはわずかな救いがありましたね。
定信のやる気は買うけれどなかなか困った人でもある。田沼という敵を作ったからヒーローになれたけどこれからが正念場だろう。それにしても承認欲求の塊みたいな人だね。だからからかいがすぎると全力で潰しにかかるんじゃないのかと心配だ。歌麿の方は師匠の死と結婚。師匠の死は悲しいけれど絵師が筆持って死ねたら本望だろう。歌麿が絵を描きたくなっちゃう女に地味だけど立ち振る舞いで目を惹く藤間さんを持ってきたところが憎い。かわいい夫婦で嬉しい。
上手く伝わらなかった「からかい」
そのせいで蔦重が頑なになっている気持ちもわかるけれど、見せしめにたくさんの人が処罰されている現状を見ると、もっと慎重にと思ってしまう。
冷静さが欠けていると判断も狂う。
間の悪いことに、兄さんの噂話が入ってくる。
上手くいかないときって、こうもタイミングがすべて悪いものだろうか。
春町先生の主君が先生のよき理解者だというのも気にかかる。
おていさんの忠告も耳に入らない蔦重。
いよいよ本当につらい時代に入るのだろう。
歌麿が身を固めたか。奥さん役は藤間爽子さん。さすが藤間流家元、町娘の姿だけど着物での立ち居振る舞いが板についてる。個人的に藤間さんのファンなので、大河ドラマへの出演はうれしい。
石燕の死はさすが妖怪画の大家だけありました。残した絵は雷獣。雷の化身みたいなもので、人を害する妖怪だし、この後の世が暗示されているということでしょう。
気になるのは江戸の人はいわゆる「判じ物」は得意中の得意。絵も読み物も暦も芝居も狂歌も、とにかく判じ物だらけだしね。だからある程度の人は蔦重の仕掛けに勘づいていたと思うよ。ただそれを大きな声では言えなかったんじゃないかな。心情的にも時代的にも。
定信の思い通りに老中首座となり、世の中は定信びいきになった。
庶民の後押しって、とっても無責任だけれど大きい力だ。
田沼をたたけばたたくほど人気が上がるというのは今の世も同じようなことがあるなと思う。
蔦重がそれに乗っかって世の中を書をもってからかうつもりらしい。
きちんと前もって田沼に話をつけておくのが蔦重らしい。
ただ、見せしめにたくさんの人が処分される世の中で、かなり危ない橋であることはたしかだ。
それでもどうしても曲げられないということなのだろう。
この先は史実として知ってはいるけれど、書物好きそうな定信がどの時点で動き出すのか。
このドラマならではの緊張感がたまらない。
コロナ禍の自粛だってそうだけど、ああいうのが好きなのが一定数いるのよ。自分で働いた金で遊んで何が悪いのさって思うけどね。遊興が全部禁止なら本だって贅沢品になるんじゃないのかい?貧しい侍と羽振りのいい町人じゃバランスが悪いってことでしょう。どうしてみんなで豊かになろうって思わないのかね。これで内需も落ち込んで景気はもっと悪くなる。どんな時代も上の風向き一つで何もかもが変わってしまう。何百年も前の人々とおんなじことで悩んでるってやばいよね。
松平定信の行ったことは、すごく簡単に言えば、武士が貧しくなったから町人もそれに合わせろということ。根本は武士の石高制にあるんだけど、その解決法として町人たちがせっかく拡大した内需を抑えるっていうのは愚策。なのに後に定信の質素倹約が素晴らしいとされたのは、明治維新の思想的根拠となった水戸学を評価したい維新政府や、更に立て続けに起こした戦争によって物資不足でも国民に耐えろと言うための方便だったというのが正解だろう。
階級社会でお上にモノ申すのが難しい時代でも、反骨の文化人たちは刀ではなく筆で対抗しようとする。その精神は表現の自由なんてものがなかった時代にもあった。そこがすごいなと思う。
現代のように同調圧力の強い時代にこそ、こういう反骨を知って欲しいね。
蔦重は新さんたちの味方になることで事が悪い方に進まないように制御したい気持ちがあったんだろうね。でもそこかしこでご飯が食べられなくて骨と皮だけになって死ぬ時代だよ?お行儀よくなんてやってられないよ。新さんは蔦重を守る事ができて良かったんじゃない?本音を言えば守る人は誰でも良くて、人の命を守って天国に行けたらふくやとよ坊にも会える。それが本音かもしれない。そんな人たちに、死んだほうがマシな世界は変わったか?と問われそうだ。
まさか蔦重をかばって新さんが亡くなってしまうとは。
おふくちゃんがあんなことになってしまったから、せめて二人の分までと願っていたのだが。
丈右衛門だった男は打ちこわしが蔦重のせいで思い通りに炎上せず焦っての凶行なのだろうか。
それとも治済公からの指示があったのだろうか。
新さんが「毒でも…」と言っていたから、元から蔦重を狙っていたのかもしれない。
歌の言うように新さんの亡き顔は辛そうでも悲しそうでもなかった。
最後に大切なものを守ったという安堵感というか達成感みたいなものがあったのだろうか。
お米が無いという今と重なるこの時代。
今と決定的に違うのは、どうして無いのかを知ることができること。
それに少しは世の中が成熟しているからか、生きていくためのいろんな補助がある。
庶民が打ち捨てられている時代もあったのだと思うと今は恵まれているのかもと思えてしまう。
ここにきて大奥では例の手袋が高岳に差し出された。
伏魔殿が動き出して、もう田沼が動ける余地は無くなったということなのだろう。
いよいよ息苦しい時代が始まる。
なるほど蔦重は田沼親子、源内、新之助、誰袖など、たくさんの人の思いを抱えて、松平定信の寛政の改革と対峙するわけですね。それなら後に発禁や罰せられても対抗しようとした理由になります。
安保闘争の時代もそうだったけど、うまいアジテーターがひとり入れば、民衆は案外簡単に暴徒化する。人はそれほど理性的な生き物じゃないし、感情が高まると勢いが勝る。アジテーターが長谷川に射られたのはすっきりしたけど、実際のところ江戸期っていきなり切ったり射かけたりしないしね。本当なら捕らえて背後関係がないのか調べるべきなんだけど、そこまでリアルでなくとも許容範囲かな。
汚い格好で市中に出て田沼が悪いと噂を流す治済ってどんだけ暇なんだよって思うけど、実際暇なんだろうね。将軍を絶やさないためだけにいて一生控えじゃ、そりゃグレたくもなる。やっと日の目を見ても実務経験がないんだから何にもできなくて当たり前、かわいそうっちゃかわいそうな人なのかもね。市中ではいつ打ちこわしが始まるか分からないピリピリムードの中、来ると思ったコメが来ないとなれば一触即発になるよね。それを待てば来るんだからと宥める蔦重はもはや上流階級なのだろう。チョロチョロしない方がみんなも穏やかなのでは?と思ってしまった。
たしかに田沼様はやれることはやっておられるのだろう。
けれど、庶民は米が手元に届くかどうか、自分たちが住む家があるかどうか、そういう今がすべてだ。
一生懸命やっているかどうかは関係なくて、末端の結果がすべてだ。
だからこそ、悪意の入り込む余地があるのだと思う。
いよいよ打ちこわしが始まった。
一橋の思惑、定信の下心、そして出てきた暗躍する人たち。
蔦重の言うように、ケンカで済む打ちこわしになるだろうか。
嫌な予感がする。
おふくさん、一番感情移入出来る、応援したくなるキャラクターだったので、ショックが大きい…
重三郎は、商才だけでなく、説得力も凄いと感じる。「江戸っ子」「粋」と言われたら相手の感情も鎮まる。
打ちこわしの背景にはもちろん飢饉があるわけだけど、政治の問題でもある。田沼も一橋治済や松平定信も米価高騰に無策という意味では変わらないしね。江戸期は石高制というお米が通貨代わりになった時代だからこそ、米高は石高が変わらない武士にはありがたかったし、商人はより投機的になった。庶民だけが置いておかれた。
でも新之助の考えには同意できないかな。奥さんの死は確かに因果を追えば国が悪いってことになる。けれどまず悪いのは犯人であって、それを許すなら国も許すべきだ。犯人も国も許さないならわかるんだけど。
まあこういうのは理屈じゃないんだろうねえ。出版という、言葉で伝える仕事の蔦重は、あくまで言葉にこだわる。だから新之助たちに旗を作らせ、スローガンを考えた。けれど暴力は言葉よりも簡単に伝播する。
そして悲劇は起こるんだろうな。
蔦重がパリッとした着物を着て長屋を訪れた時から嫌な予感がしていた。米を食べさせるなら店に来て食べさせないとダメじゃないかと思っていたら予感的中。ふくは近所の赤ん坊に乳をあげていたのにこんな仕打ちに合うなんてね、とよ坊まで死なせる意味はきっとそこまでしないと新さんの振り切れた仇討ちには繋がらないからなのだろう。田沼が悪いと大合唱が聞こえてきそう。ただ田沼を消したら問題は綺麗さっぱり無くなるのか?田沼は本当に悪なのか?いつの世も踊らされてはならない。
田安家に教わって作った醍醐なんて憎しみとか怨念とか入っていそうで恐ろしい。
毒が入っていなくても、何らかの体調不良は起きそうだ。
上様の体調不良は田沼の権威と完全に比例する。
このところの田沼の不人気どころか恨みは底知れないけれど、どれも天変地異のせいだから可哀想になってしまう。
いつの世もお天道様に振り回されるんだなと今を思う。
少しだけ周りよりも恵まれているからと他者へ優しさを分けてあげていたふく。
そのせいで子どもともども殺されてしまう。
感謝されこそすれと思うけれど、貧しいということ食べられないということはこういうことなのだろう。
犯人は自分と同じ境遇のもの。
同じように源内さんのそばにいて、細見を作っていた新さんが地べたをはって生きている。
足抜けしてどうやって生きていくのかと前に出てきたセリフが思い出される。
新之助の「この者は俺ではないか」というつぶやきはなるほどと得心するし、心が痛くなる。そうであれば確かに怒りを向ける方法がわからなくなるだろう。
でも苦しい中でもふくのように正しく生きようとする者がいたわけで、どんな理由をつけても人を殺した奴が悪い。
政治が悪い、世の中が悪い、そんなのいつの世だって、腹の中ではそう思っている奴は山ほどいる。実際、歴史をみればろくな政治はしてないし、世の中が本当に平和で安穏だった時代なんてない。けれど泥棒と人殺しが許される理由にはならない。だからこそ、やはりここはふくを殺した奴が悪い。
それはそれとしてケリをつけて、それからもっとおおもととなる国を憂うべきかな。
歌麿に自分らしい絵をと勧めるのは当然の流れなのだけれど、今まで人まねばかりしてきたらどうして良いのかわからないのはよくわかる。
自分らしさがどこにあるのか。
蔦重が勧めた絵は歌麿のトラウマを掘り起こしてしまったようで、亡霊のように自分の周りにまとわりつく母と男に怯え、恐れ、取り乱す姿は見ていて辛いものがあった。
師匠の下で少し穏やかな顔で花を愛で描く姿に少しホッとした。
一方の城内は穏やかじゃないですね。
定信も戻ってきて、何やら画策しているようだし、大雨による利根川の決壊も絡んできて、また不吉な予感が。
蔦重は歌麿に新しい名前と人生を与えた。過去も知った上で誰よりも幸せになって欲しいと思っていたし、世に売り出すのは自分だという自負があった。その上でもう一段上に行くにはと考えての枕絵だったのだろう。それは過去のトラウマを上書きするような策だったのかもしれない。でもそのトラウマが大きすぎて囚われてしまうことまでは想定外だったのだろう。このままでは歌麿が壊れてしまう!と思ったところに昔の恩師。石燕といた時間は子供の頃の歌麿のエスケープだったのだろう。ここで石燕に預けることができて良かった。
鳥山石燕とくれば妖怪好きならば誰もが目にしたことがある「画図百鬼夜行」の作者。私も図書刊行会のものを持っているけど、石燕の前に画図として妖怪を定型化したものはないらしい。つまり初めて妖怪を視覚化させたのは石燕だと言っていい。
このドラマの歌麿は心に妖怪的なものを抱えているわけで、それをどういう形にせよ、呑み込んでしまうには、石燕という人物はもってこいだろう。
史実では石燕は恋川春町の師匠でもあるし、本名は佐野の姓なんだよね。まさか佐野大明神こと佐野政言と因縁が、なんてことはないと思うんだけど。
怒りが過ぎると目には目をと同じ苦しみを返すことばかり考えてしまいがちだ、そんな中で蔦重の仇討ちは少々生ぬるいかもしれない。だけど嘘か本当か分からない話に乗せられて佐野大明神ができあがってしまった世の中で、相手も死んでしまっているのに呪うことだけしかできなくなってしまった誰袖を呪いから解放して笑顔にさせたことは大きな功績だろう。みんなもいつのまにか佐野のことなど忘れていつもの日常に戻った。こんな風に世界でもいつか争いがなくなったらいいのにね。
京伝は隠れて努力するタイプだったのだな。
春町がこちら側だと受け入れるシーンは滑稽ではあったけれど少しうれしくなった。
これで堂々と他の人たちの助けを得られるとホッともした。
意次の仇討ちが上手くいったのかどうかは治済の動きを見る限りわからない。
ただ、蝦夷の上地は進みだした。
蔦重の仇討ちはかなり粋だし大成功と言えそうな気がする。
誰袖は笑ったし、世の中から「佐野大明神」を追い出した。
間違ったうわさは否定するより異なった楽しみを与えた方が消えるということなんだろうな。
それだけ人というのは忘れっぽくて流されやすいということだ。
劇中劇もなかなか凝った仕様になっていて、バカバカしさもわかりやすくてとても楽しめた。
山東京伝、大活躍ですね。何でもできるからこそ、ひとりで完結させることができる。でもそれは陰でとんでもない努力があるわけで、器用貧乏のような見方をされることが多い京伝だけど、それはあらゆる分野へのチャレンジと研鑽がベースにあるということなのだろう。それには同感だね。
京伝を中心とした劇中劇が面白かった。役者さんたちも楽しんでやっている雰囲気が伝わってきた。
京伝を演じる古川雄大さん、なかなか多才ぶりを発揮し、良い芝居でした。
誰袖も少し救われたかな。
意図的に噂を流し、意図的に人を貶める。
今の時代だって同じようなことがあるなと思ってしまう。
意次の復讐は意知のなしたかったことをなすこと。
志は人に宿るけれど、人が亡くなっても失われないと治済に宣戦布告したところは少し感動した。
でも、これって治済が次の一手を打とうと考えるきっかけになってしまわないだろうか。
一方の蔦重はどういう方法をとるのだろう。
閉鎖的で口々に伝わることが本当になってしまう世界。誰かが石を投げればみんなも投げるし、誰かが持ち上げればみんなも拝む。歴史上の人物も濡れ衣だ〜と叫びたい人はたくさんいるのかもしれない。なにをしても変わらない事実は意知が死んだということ。逆縁に苦しむ田沼に塩を塗るかのように近づく一橋、息子の体はなくなったが心はいつもここにいる。誰の手も届かない自分だけのものになったという田沼が強くて悲しい。どんな時代になっても逆縁の苦しみだけは変わらないな。
江戸時代は固定化した階級社会だから、庶民と政を担う人たちには今よりも更に大きな距離がある。だから江戸庶民は常に権力者には批判的な面を強く持っていた。でもさすがに直接将軍を批判はできないから、時の老中とか奉行なんかをやり玉にあげる。だから「四谷怪談」とか「忠臣蔵」とかの歌舞伎の演目にも政権への批判とか皮肉が込められている。
問題は現代と違って、庶民にはまったく選択権がないこと。人事も政策も影響力を行使できない。だから何か事件が起これば、それに便乗して批判や皮肉を込める。それが江戸庶民のやり方。
なので佐野政言を持ち上げ「佐野大明神」なんて囃し立て、田沼を攻撃しているように見えるけど、庶民の本音は田沼だろうが松平だろうが、どうでもよかった。どうせ、庶民にはまったく選択権がないんだからね。誰でもいいから米の高騰をなんとかしろよ、と直接的には言えないから、佐野の真実なんてどうでもよくて、ただ反権力の象徴として祭り上げた。
そこのところを理解するのは、なかなか難しいけど、江戸時代の本質はそこにあると思う。
政が絡んで難しくなったがまだまだ面白い
意知としたら最後まで気にかけてもっと報いてやりたいと目をかけていた佐野に殺されたんだから浮かばれないよね。佐野もそうするように仕向けられたとしか思えなくてこちらもかわいそう。元々介護やなんやでいっぱいいっぱいのところに意知の嘘のような裏切りを知りもう全てがどうでもよくなってしまったのではないか?馬鹿正直に生きていれば報われるってもんじゃない。誰袖のように逞しくなきゃ世の中は渡れない。それでも不意の不幸は訪れる。幸せいっぱいのかおりの笑顔が辛かった。
自分が置かれている境遇に噂話、そこにまことしやかに吹き込まれるデマ。
人の心って、本当に小さな綻びが些細なことの積み重ねで疑心暗鬼に陥るんだよね。
今の世の中でも普通に起こっていること。
元はといえば佐野の系図を池へドボンとやった意次の失態とも言えるけれど、イライラしているところへ渡してしまった意知の失敗でもあるんだよね。
本当に小さなことが巡り巡ってとんでもないところへ波及していく。
史実で確かなことは、佐野が意知に切りつけたことと、意知が亡くなったこと。そして佐野が切腹したこと。
それぐらいなんだろうけれど、意外とこういう風に小さなことが積み重なったのかもなと思わされる。
意知を失った意次がどんな表情をし、どう動くのか。
田沼家に裏切者がいそうなところも気になる。
佐野政言による田沼意知の殺害だけど、このドラマ上では政言が陰謀に乗っかってしまったことはあるけど、そもそも田沼意次が佐野家の系図を粗略に扱い、政言への配慮も欠けていたことが原因でもあるよね。意次の驕りとも言えるかな。
いずれにせよ史実として政言は「世直し大明神」と崇めるものが出たほどだし、田沼政治への批判は武家だけでなく、庶民にも根強くあったのは確か。だからといって後の寛政の改革が正解だったとは言えないけどね。
これで蔦重の献策も無駄になり、誰袖の思いも儚くなった。田沼時代も終わりが見えてきた。でも江戸町人文化の華、文化文政期もまもなくだ。
蔦重の母親はやっぱり蔦重と同じように人たらしだったんだ。
あの親にしてこの子ありという言葉を思い出してしまった。
アイデア豊富で才のある人たちの中に入ったら、真面目で堅物と呼ばれる人が肩身が狭く感じるのはわかるような気がする。
ていが出ていこうとしたのも仕方がないと思う。
ただ、それを止めた蔦重の言葉がとても良かった。
あんな風に言えるようになったんだなとも思う。
瀬川とはまた違った同士のようなていだから素直に言葉にできたのだろうか。
形だけの夫婦から本当の夫婦に。
良かったねと言いながら涙する歌麿が少し切なかった。
夫婦って、互いに見つめあうだけの夫婦もいるけど、共に同じ方を向いて歩む夫婦もいる。蔦重とていはその後者。個人的にはその距離感の方がいいと思う。
瀬川は確かにいい女だったし、華やかさもあった。でも蔦重に合うのはていの方だなって気がする。
問題は歌麿。「生まれ変わるなら女がいい」というセリフからして、蔦重に思いを寄せているのがわかる。ゲイとか言うのではなく、彼の生い立ちを考えれば、男も女もないんだろうけど、蔦重は違うからね。歌麿の生い立ちをあんな風に描いたのはこの伏線でもあるわけだ。
よく考えられた脚本だなと思います。
米の値段が去年の2倍だって!?今とそっくりじゃないか!出し渋って値を釣り上げているのもおんなじ、いつの時代も泣くのは庶民だね。米も作り出せないって蔦重は言っていたけど、だからこそできることを考えるところがかっこいいよね。周りをどんどん巻き込んでいく蔦重に、ていさんはいつのまにか惚れてたんだろうね。そして似つかわしくないと身を引こうとした。いじらしいねぇ。ていさんが笑えば歌麿が泣く、モテモテだ。それにしても引き合いに花魁を出すあたり、ていさんは誰かから何か聞いたのかねぇ。
鶴屋との和解がここに出てくるのか!天変地異すら機転一つでそれこそ金が降ってくるような出来事にしちゃうんだから蔦重はすごい。気取ってる町はよく言えばみんなが品良く、悪く言えば停滞したりするもんだ。そこに灰でもなんでも面白がってしまおうとする蔦重がくればまた違う化学反応が起きる。日本橋としたって悪い話じゃないよね。嫌っていた吉原に自ら出向き暖簾をプレゼントする鶴屋の粋に感動。メガネなしのていに感嘆。見せ場がたくさんあって飽きないね。
浅間山の大噴火による降灰の影響が日本橋にも出ていたけれど、本当に大変なのはこれからなんだよね。
少しだけ新之助夫婦が映ったからちょっと心配だな。
そして意知の若年寄への話が上様から出たり、誰袖へ渡した扇子に「死」の文字があったり。
いよいよ近づいているんだなと思ってしまう。
蔦重は困りものの灰ですら自分の糧として、自分を表現する道具にしてしまった。
本やお店への情熱、嫌なことでも遊びに変えて頑張れてしまう性格。
あの鶴屋さんからも笑顔を引き出し、おていさんをも強力な協力者に変え伴侶としてしまった。
婚礼の場での鶴屋さんからの暖簾のプレゼントには本当に感動した。
鶴屋の対応はなんだかんだで江戸っ子らしいかな。けんかっ早くて、意地を張るけど、野暮を嫌う。あそこで暖簾を用意するなんて、なかなか粋だと思う。
蔦重とていの関係はまだまだこれからというところだけど、徐々に心を通わせていければいいね。
問題は誰袖だ。いろいろと危ういところに踏み入れ、危険な雰囲気がぷんぷんする。彼女がこの後、幸せなるとは思えない。過ぎたるは猶及ばざるが如し、と言う。ちょっとやりすぎかな。
あの頃町人はわからないけど商売のために政略結婚とかよくある話だったんじゃないの?だから本屋のために結婚しませんか?っていうのも今より突飛な発想ではない気がする。でもその相手が前の夫を狂わせた吉原者っていうのが気に食わないんだろうね。まぁていさん自身もど真面目っぽいし水と油。でもそこからどうやって夫婦になっていくかってところが見どころになっていくから面白いんじゃないの?あの横浜流星を見かけ倒しと言っちゃう大河ドラマ、恐るべし。
蔦重とていさんって目指しているもの、願っているものは同じなんだよね。
それがどうすれば伝わるのか。
一度男に騙されているだけにガードは相当堅いだろう。
あんな風に商売のために夫婦になっちゃいましょうなんて、さすがに普通は無理だと思う。
ただ、恋愛感情なしで仕事を発展させるって一点突破を目指したのは間違ってない気がするんだけれどね。
どこかで裏表なく書籍を愛していることが伝わればすべて上手くいくんだろう。
そして田沼の坊ちゃん、いよいよ危ない感じになってきた。
松前の弟君だけでなく、松前公本人登場。
えさに食いついたのか、食いつくふりをしているのか。
あんな危ない人物と取引だなんて誰袖花魁にだって危害が及ぶのでは。
気が気でなくて、ハラハラが止まらない。
ていに対しての蔦重の言動は、とても合理的かもしれないけど、心情として思いやりに欠けている。良くも悪くも蔦重の基準はすべて吉原なわけで、町娘として育ったていには受け入れがたいものがあるに決まっている。
江戸時代、女性の地位は低かったけれど、地位の低さがイコール弱いとはならない。武家ならともかく町人は「銘々稼ぎ」といって、夫婦でもそれぞれ仕事を持ち、自立している者が多く、夫婦のものでも相手が何か自分のものを盗めば罪に問うことができた。三行半といわれた離縁状だって、女性の側から請求するケースも少なくない。離婚率も現代よりはるかに高いしね。
だからいろいろ不自由だから唯々諾々と後添えになんていうほど江戸娘はおぼこじゃない。脚本家もそこはわかっているんだろうね。だから本屋を続けるということで二人の距離が近づくようフラグを立てているんだと思う
吉原もんと蔑まれ雨の当たる外に座らされるところは吉原の地位を思い知らされるようでとてもよかったです。中にいる人にとっては世の中になくてはならない場所(男たちにもそうだし、売られるしかなかった娘たちにもそう)だと思っているが、外に人にとってはそうではない。前に蔦重が言っていた女の股で食わしてもらっているところなのだ。そこから日本橋の本屋が生まれる。痛快じゃないか。鶴屋の隣ってところがまた面白い。未来の嫁さんとの対面も一筋縄ではいかない気配、楽しみだ。
吉原者は四民の外、このところ忘れていたが葬式の様子で痛いほど思い出した。
個人や遺族は良くても、参列者が良しとしない。
そんな吉原者の作った本がどれだけ素晴らしくても、やっぱり第1選択にはならないのだろうな。
1つしか手に入れられないのなら、身元確かな物に手が伸びるのは仕方がないのかも。
今の蔦重に足りないのは身元の確かさなのかなと思う。
それが日本橋ということなのだろう。
吉原を捨てて出ていくのではなくて、吉原者でも日本橋へ行けるという前例を作るためでもある。
親父さんに蹴落とされて、血を流しながらも一歩一歩上って説得するくだりは心底カッコが良かった。
江戸土産は日本橋でというのが、この時代の定番だからね。田舎者にとって吉原は敷居が高い。花街に行くなら深川とか岡場所になる。だから日本橋に店を出すのにこだわるのは正解。
ひとつだけ脚本として気になるのは、忘八だと言ってるんだから、親孝行なんて言葉を使うのはどうなんだろうか。「孝」は八徳のうちだからね。それなら忘八にだって八徳はあるって、並べ立てるか。逆に八徳は無くても、こういうものがあるって違う例えを出すかした方が、筋が通ると思う。