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脚本・ストーリー 3.7 /5.0(73.8%) | 505位 /1087件中 |
キャスト 4.1 /5.0(81.4%) | 461位 /1087件中 |
演出 3.8 /5.0(76.2%) | 421位 /1086件中 |
音楽 3.7 /5.0(73.4%) | 404位 /1087件中 |
感動 3.7 /5.0(73%) | 221位 /1082件中 |
笑い 3.0 /5.0(60.2%) | 437位 /1082件中 |
スリル・興奮 3.8 /5.0(75.2%) | 244位 /1079件中 |
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キャスト 4.1 /5.0(81.4%) | 461位 /1087件中 |
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音楽 3.7 /5.0(73.4%) | 404位 /1087件中 |
感動 3.7 /5.0(73%) | 221位 /1082件中 |
笑い 3.0 /5.0(60.2%) | 437位 /1082件中 |
スリル・興奮 3.8 /5.0(75.2%) | 244位 /1079件中 |
本人は何も変わっていないつもりでも、周りの見る目も環境もどんどん変わっていっているから、たとえそれが公平な政の為であったとしても私欲のために見えてしまう。
それでも苦言をくれる人たちは間違いなく元々の道長を知っているからというのもあるし、関係性が立場で変わらなかったからじゃないのかな。
実資は相手によって態度を変える感じじゃないから、望月の歌を唱和することを提案した場面を見て、言われていたような傲慢な歌ではなかったのではと思った。
本当にそうなら小右記に不満ごと書いてそうだし。
道長の心の中は本当のところどうだったんだろうと思ってしまった。
史上もっとも有名な道長の和歌が詠じられましたが、これって「平家にあらざれば人にあらず」と似ていて、やはり栄華を求めてそこに達した者の言葉だと感じる。だからこそ「民を思う」道長というこのドラマの人物像は違うかなと思う。
解釈の問題と言われるかもしれないけど、そもそも解釈とは無いことを類推することとかフィクションを作ることではない。有るものを理解すること。その意味でちょっと無理のある人物像だったかなと感じます。
三条天皇が崩御しましたが、36歳での即位は、今なら晩年の70代での即位という感じだろうし、最初からショートリリーフのイメージだからね。もう初めから退位が視野に入っていたのだろうし、思うようにはいかなかったのは仕方ないかな。権力闘争の犠牲者ではあると思うけど、天皇になれただけマシかもね。
倫子に「私は殿に愛されてはいない」って言われた時の道長はどきっとしただろうね。核心をつくような言葉を並べながらも最後にはそれ以上の幸せを与えてくれた殿に感謝しかないと言う倫子はたいしたもんだ。そこでどきっとしてないで倫子を愛してると言えば格好がついたものを、その間をのがしてしまうのも道長らしい。まぁこれだけ長い時間を夫婦で過ごしてきたなら少しの嘘も見破られてしまうから言わない方がいいのかも。達観した倫子にあっぱれ!
目も見えず、耳も聞こえないのに、意欲だけで政を行うのは無理があるよね。それに道長が本気ですべての権力を掌握しようとしているなら、三条天皇の病状は誰かの祟りとでも噂し、さっさと出家させられているでしょう。花山院みたいに。
他の者たちも、自分の欲ばかりで道長を批判するけど、のうのうとそんなことを言える環境を作り上げたのは道長だというのを忘れている。まさに上に立つ者の孤独です。
そして紫式部は娘と同じ女性として目線が合い始め、ようやく母親らしい思いをぶつけられるようになったなと思います。それが文章の違いにも出て来たというのが「宇治十帖」に見える変化だというところなのでしょうか。
一条帝は亡くなり、彰子も強くなり、「源氏物語」はもう役目を終えたのはわかっていた。
それでも「雲隠」という文字を見た時の、何とも言えない物悲しさとさみしさはなんだろう。
あの文字を見た時の道長の気持ちもどのようなものだったのか。
三条帝とのやりとりも一条帝との時よりピリピリとした空気感で、より陰湿に見える。
それは以前より歳がいったからなのだろうか。
道長が病もだけれど、気力にも欠けているように見える時、やはり動くのは百舌彦で、頼る先はまひろ。
両者が何で繋がっているのか良くわかっているのだ。
新たな物語が動き出すとき、まだ時代が動いていくのだろう。
まひろと道長の川辺のシーンはこれぞソウルメイトといういいシーンでしたね。どこかの屋敷の中ではなく昔幼い2人が出会ったような川辺、また生気を失った道長には三途の川の前にも見えました。最後に会いたいのはまひろということでしょう。女として愛する人の近くでたくさんの子を産み弱った時には看病もできる正妻がいいのか、どこにいても心が通じ合いいざという時思い出してもらえるソウルメイトがいいのか‥悩みます。道長がこんなにいい男だったら、の話ですがね。
「雲隠」はいろいろと謎の多い巻だしね。巻名のみか、中身は何らかの理由で消されたのか、本当のところはどこからか「雲隠」の本文が見つからない限りわからないけど、このドラマの流れだと道長と三条天皇の政治に巻き込まれて焚書という展開も面白いかもしれない。
それにしても百舌彦は道長のことが本当によくわかっているね。ただまひろに頼るというのではなく、道長を本気にさせる源流がどこにあるのか理解しているんだね。道長もまひろも、もうひと踏ん張りというところでしょうか。
三条天皇は道長を取り巻く環境にヒビを入れ、力を削ごうとしているのだろう。
片方を取り立てて、片方を冷遇する。それがまっとうな評価なら仕方がないけれど、そうでなさそうなら人間関係そのものにヒビが入る。
道長を関白にというのも位は高くなるけれどある意味実権を奪うことになる。
これからは道長VS三条帝がしばらく続くのだろう。
そして彰子がさらに覚醒し、国母として君臨する未来も少しずつ見えてきた。
まひろの清少納言を下げる記述も出てきたし、いろいろ知っている情報が物語に組み合わさって更に密度が増して流れているのが面白い。
清少納言があの場で嫌悪感を露わにしたのは仕方ないよね。一条天皇と定子の蜜月をそばで見て、憧れの定子と親愛の情で結ばれた清少納言。そばに仕えた自分自身さえもこの世の春を満喫し世界の中心にいた自負がある。それなのに、だ。今や一条天皇も定子もおらずその息子も追いやられた。自分たちがいた中心で微笑んでいるの彰子。その歌会で歌など歌えるわけがない。時は移り変わり主役も変わる。彰子のそばで笑うまひろはかつての自分。栄枯盛衰を見た思いだ。
顕信の出家だけど、「少右記」から察すれば、この出来事の前に斎場で他者の悪口を言っていた事件が原因かもしれないけど、このドラマの展開だと道長が責められるのはちょっと可哀想かな。彰子の件も常識的なのは道中の方だ。
少なくともドラマの流れでは兼家とか道隆の時代よりも、道長の政の方がずっと穏当な印象です。なのに兼家や道隆によって引き立てられた親族のように、自分たちも栄華をと思う欲が邪魔をする感じでしょうか。
この清少納言も伊周と変わらぬ妄執の人であり、過去の栄華を引きずる人で、紫式部の寸評も納得できるなあと思います。
彰子の怒りの表現は意外というか、ここまで感情を言葉にできるようになったのだと感心した。
人は環境によって変わっていくということなのだろう。
敦康親王を我が子のようにいつくしんでいたのは何度も描写されていたからわかるし、第1皇子だしというのもわかる。
しかし、後ろ盾が弱い状況では花山天皇かそれ以上に早く譲位を迫られるか、世が乱れるか。
上に立つということがどれだけ難しいのかということを考えさせられる。
敦康親王ご本人は達観しておられたけれど、少納言は伊周を彷彿とさせるような形相だった。
あの顔を見てしまったら、もうまひろと語り合う場面はないのかもしれないと思う。
ドラマの中とはいえ、ちょっと残念だな。
道長が不実をするとその罰がある的なことを言って目を伏せたまひろ。いやいや賢子ができたのはまひろ1人のせいじゃないからね。しかもまひろはその罪を夫に暴露して赦されている。道長の不実は自分の孫を強引に天皇にしたことだろうか。その罰はどう下るのか。あんななな幼い孫を天皇にゴリ押しするほど自分の命が長くないと思っているのだろうか。そうなると涼しい顔して眺めていた父や兄たちのあれこれと変わらないのではないか?血は争えないということか?
朱子学があって水戸学があって明治維新と、君主尊重というか天皇史観というか、そういうのがあったから、どちらかといえば道長って評価が低い、あるいは人気がなかったと思うのだけど、その最大の原因はこの敦康親王の件だろう。
たしかに一条天皇の意思を考えれば、横暴なのかもしれないけど、行成のいうことも正しくて、外戚が弱い天皇は朝廷が乱れるもとになる。
だから政治的にみれば、この判断は賢明といえると思う。まあ政治的に最良の一手が、感情的にどうかというのはいつの時代も変わらない課題なんだろう。いずれにせよこのドラマを機会に道長の再評価があるといいね。
惟規が死んでしまった。ドラマだと分かっていても辛いのに、実際の家族ならどれだけ辛いことか。本人も這ってでも帰りたかっただろうに無念よね。まひろには1番気掛かりだった賢子との関係を、為時にはずっと内緒にしていた賢子の出生の秘密を、それぞれ言ってから亡くなるのは都合が良すぎるけど蒔いた種はこの先どうなるのかそちらも気になった。まぁ賢子のこの先を考えたら道長という大きなバックボーンはあった方がいいしね。道長には知ってほしいかなー。
いつの時代でも逆縁というのは親にとってつらいもの。為時にはこたえるだろう。もちろんいともどれほどの哀しみかと思う。
いろんな逸話の残る惟規だけど、勅撰和歌集に10首もの和歌が選ばれていることを考えると、紫式部に一番似ていた姉弟なのかもしれない。為時は漢詩だしね。
それにしても伊周は本当になにがしたかったんだろう?官位だって正二位となり、道長だって敦康親王を推していたわけで、道長より8歳も若いんだから、養生して我慢していればいろいろ可能性はあっただろうに。まあ年齢に関係なく突然の死も多い時代だし、待つことはできなかったのかな。
道長は彰子と敦康親王との距離の近さの中に、光源氏と藤壺を見ている。
実際に源氏の物語が流行っていたのだからダブらせて見ても不自然ではないし、いろいろと鈍感な道長が作り物の物語を現実の手本にするのはありそうだと思うし上手い設定だと思う。
伊周も亡くなり、隆家が後見となるようだが、隆家は伊周のように権力欲はなさそうだし、道長に逆らう気がなさそうだから伊周の死でもって道長の世が安泰になったようにも見える。
道長の後押しがあったからか再び官職を得た為時と同行した惟規の最後も描かれた。逸話通りだし斎院の件で匂わされていたから覚悟もしていたけれど、やはり悲しいし辛い。
惟規の死を知って嘆くまひろを賢子が慰める様子が描かれていて、共通の悲しみを持って和解するというのも上手いと思う。けれど、やはりそのきっかけが惟規だというのが悲しい。
まひろとききょうのシーンはなんともヒリヒリした感じで、実際もあのようであったのではないかと思ってしまった。
最初は穏やかに褒めるところから入って、最後には恨んでいるとかなり強い調子で。それを受けるまひろの表情にも見入ってしまった。
毎度恒例になった感のある伊周の呪詛だが、いよいよ大事になり表に出た。
昔、呪詛というのは、世間が狭く、呪詛されているという風聞が本人に入ることで成り立っていたと聞いたことがある。
ある意味、伊周が狂気の表情で道長の前で呪符をばらまくシーンが一番効き目がありそうだと思った。
和泉式部登場で藤壺がさらに華やかに艶やかになったし、中宮様も表情豊かに自信も出てこられたように見える。
道長に少しずつ影が見えてきていて、結構近いところで火種がありそうだし、次にどうなるのか本当に楽しみなドラマだ。
伊周のやつれるほどの呪詛はどこまで効くのか分からないけどこれが嘘じゃないところが笑ってしまう。本人は大真面目にやっていたんだろうけど、刺客を差し向けて殺したり罠に嵌めて罪人として裁いたりする他の時代に比べたらなんて平和なんでしょうと思わずにはいられない。このまま敦康親王が帝になればそんないっちゃってる伊周がまた息を吹き返すと思って自分の血の繋がった孫を次の天皇にするって??それじゃ道長がいい人すぎないか?そこだけが不満だ。
紫式部VS清少納言。想像していたよりは激しいやりとりはありませんでしたが、それがかえって良かったかもしれない気がします。
思うに紫式部は基本的に小説家であり、清少納言は随筆家なんだよね。同じ時代の女流文学ってことでまとめられちゃうけど、フィクションを作る者とノンフィクションを描く者とでは、いろいろと異なる面がある。
たとえ双方の作品が宮廷の力学に利用されたとしても、ノンフィクションとフィクションでは当然効果も異なるだろう。ノンフィクションを利用しようとした伊周の方が現実を見失うというのは、なんとも皮肉な話だと思う。
今度は実家でまひろが盛大にやらかしたねー。豪華絢爛な世界を聞いてほしいまでは良かったが、贅沢すぎる話や自分まで声をかけられたなどと下世話な話までは聞きたくない。賢子からしたらなんで帰ってきたの?って言いたいよなー。宴以降道長との仲を疑われて居心地が悪くて仕方がないから里に帰ってきたのでしょう。賢子に会いたくてって感じじゃなかったもんね。中宮様のお手紙が来て渡りに船とばかり帰っていくまひろはもう違う世界の人になってしまったのだろう。戻ったまひろに弟がお菓子の話を振るのが皮肉が効いていて面白かった。
彰子が源氏の物語を清書する紙を選ぶために、美しい色とりどりの和紙が広げられたシーン、曾祖母が残した谷崎源氏を手に取った時の感動を思い出し鳥肌が立った。すべての巻頭にあのシーンを思い起こすような薄い和紙が挟み込まれていて、その色と手触りだけでなんと雅な世界かと思った。たしかに桐壷はあのような紫の和紙が挟んであった。本文そのものが巻によって違えてあって、それぞれ書の達人が清書したものとはなんと豪勢な。さすがに帝への献上品だと見事すぎてため息が出た。まひろはいったい何時ぶりに家に戻ったのだろう。ずいぶん久方ぶりだったのだろうな。すっかり宮中になれてしまって何を話してよいかわからず、飲み過ぎたところであのように自慢話めいた話をしてしまったのだろう。少し仕方ない部分もあるけれどあれでは賢子が可哀想だと思ってしまう。
まあ娘の気持ちもわかるよね。どれだけやんごとなきお方々に物語を贔屓にしいもらっているとしても、娘にとっても家人にとっても、どこか遠くの国に出稼ぎへ行っているような感覚だろう。なのに酒を飲んで、あんな話を延々とされても、当然周囲のものはしらけてしまう。自分に接点のない話なんて面白くないに決まっている。もう少し娘に視線を合わせる心が欲しかった。でもまあ良くも悪くもそれが紫式部なのだろうけど。それにしても伊周はしつこい。得られた地位を考えれば、その執念をもっとうまく生かせば、道長との距離はもっと縮まったろうに。
長年母でも崩せなかった彰子の心を易々と掴んだだけでも倫子としてはざわざわするものを感じると思うのに、この上夫とも何かあるの?とロックオンされたらめっちゃ怖いだろうなー。それなのに無礼講しすぎちゃった道長笑。わざわざみんなの前で呼び出して詩なんかよませちゃったりして。俺の彼女頭いいんだぜーとでも言いたげな感じが笑えた。しかも隣に座って返歌なんかしちゃったりして見せつけるよねー。道長は立場があるし別にどうってことないかもしれないけど少しは藤式部のことも考えてほしいわ。
彰子にお子が生まれたということは、いろいろなところでこれまでパワーバランスが変わるということ。その反動は道長のみならず、当然のごとく彰子に頼られる紫式部をも襲うだろう。いつの時代も嫉妬というのは理屈じゃないから怖いし面倒くさい。でもきっとそれが源氏物語を書き続ける原動力のひとつにもなるのだろうね。そこは作家のサガって奴なのかな。清少納言がどう反応するのかだけど、政治を抜きに、文筆家としての感想を述べるところが見たいのだけど。
彰子が藤式部にだけ心を開いているのはわかるのだけれど、あんなに毎度あからさまに周りを下げていたら居場所なくなっていくよねと少し同情してしまう。ただ、だんだんと道長と距離が近くなってきているなと気になっていたら、とうとうやらかしましたね。公任のちょっかいに藤式部がきつめに返していたから、ちょっと想像と違うなと思っていたところへの道長からの声掛け。無礼講といっても、あんな風に阿吽の呼吸で歌を詠みかわしたりしたら誰だって間柄を疑ってしまう。倫子は歌ももらったことなかったはずなので、さすがにあれは気の毒だ。衛門からの詰問にどう返答するのだろう。
御嶽詣での過酷さを出そうと頑張っていたのはすごいけれど、途中どう見てもファイトー!一発!!と言ってしまいそうなシーンがあって笑ってしまった。御嶽詣でが功を奏したのか、はたまたまひろが書く少し大人の物語に興味が出たのか分からないが中宮が一歩踏み出したことはとても良かった。道長ってこんないい人だったのかなと違和感がある。でも8割方自分の孫を帝にという思いだっただろうが、娘の幸せを願っていたとも思いたい。
伊周だけど隆家の言う通りで、道長ひとりを排除したところで、大きな流れは何も変わらないだろう。歴史の流れとはそういうもの。花山院に射かけたのに、短い左遷で済み、再び高位の官で迎えられているだけでも運がいいし、実際には道長の力添えもあった筈。まあある種の嫉妬、あるいはコンプレックスなんだろうけどね。彰子は一条帝に本心を伝えられて良かった。そもそもは帝がもう少し大人になって、立場を理解しなければならなかったんだけど。
道長は本当に鈍感だな。だからこそあの地位まで上り詰めたのだろうけれど。不義の子のくだりはもうドキドキが半端なかった。御嶽詣での伊周のうわさも上手くまとめたなという印象。今後の隆家の活躍を思えば伊周と違ってちゃんと前を向ける人だと思うし、伊周のこれからを思って止めたというのも良かったと思う。彰子の心がまひろによって解放されてからの唐突にも見える帝への「お慕いしております」発言には、これまでの溜めに溜めた心の爆発が見えたようで少し感動した。それにしても画面がどこまでも美しく、雪の結晶までも意味ありげで、ここまで行間を感じさせる映像作品って最近なったんじゃないかなと思う。
曲水の宴の優雅さにNHKの本気を見たし同じお金を使うなら血に塗れた合戦よりも優雅な十二単に使ってくれた方が私はいい。素敵だなーと見惚れてしまいました。平安時代とはいえ一般庶民とはかけ離れた雲の上の存在の彼らの宴を見られるのはごく一部の多分非公開。それを見られるのは得した気分です。彰子を見ていると隔離されて育った子みたいに思えて不憫です。多分恋も知らずに嫁いだのでしょう。まひろと話すことで少しずつ彰子の笑顔が増えるといいな。
中宮様がまひろに話しかけているのを見て、嬉しいようなホッとしたような顔をした道長が印象的だった。親に対してもあれだけ心を開かない中宮様だったから尚更だろう。道長も中宮様も帝までもやってくるまひろの部屋はさしずめ医務室といったところか。少し中宮様のことで光が見えたと思ったのに凶事続きで御嶽詣でへ。伊周が裏で悪だくみをやるのだろうか。せっかく帝が上へ引き上げて下さっているのにどこまでも恨みに支配されていて、見ていて虚しくなる。このドラマはあちこちに源氏物語のエピソードが散りばめられていて、ずいぶん昔に読んで記憶がまばらな私には拾いきれない。これからでももう一度読み返そうかな。
曲水の宴は岩手県の毛越寺で再現したのを見たことがある。貴族文化らしい風流さがあるね。そこへの雨でまるで源氏物語のワンシーンにあるような男たちの何気ない会話。彰子には経験とか体験とか、そういうものが必要だかし、源氏物語の世界との重なりもあり、とてもよい演出だったと思います。初めの頃に比べて、このところ演出が冴えていますね。ここからの彰子の変化に注目です。そして伊周は息子にまで嫌われてしまい、より怨念にも似たものを抱き、この後、道長暗殺の動きにつながるのでしょう。懲りない男です。権力への妄執って醜いだけなのに。
もちろん作家という職業が確立されていない時代なんだとは思うけど、宮中に仕えながら物語を書くって大変だよ。あなたは書いていればいいから、なんて言われたとしてもあんなざわざわしたところで言葉の一つも浮かびはしない。まひろだって宮中に行くまでは作品の刺激になるような出来事が見聞きできるのでは?と思っていただろうし後ろ向きではなかったとは思うけど、思ったより過酷だったわね。でもまひろが宮中に上がってくれたおかげで絵巻を見るような美しさや宮中行事の慌ただしさを感じることができた。それだけは感謝だわ。
たとえ中宮様仕えだといっても、お仕えする人たちは几帳で隔てただけの大部屋。そりゃプライバシーも何もあったものじゃないし、見たくないものも聞きたくないものも見えたり聞こえたりするだろう。よっぽど図太い人しか生き残れない気がする。だからといってまひろにだけ寝所を与えようものなら妬みも倍増なのは明らかだろうし。やっと中宮様の声らしき声が聞けたのがまひろ相手というのは、まひろが中宮様に寄り添ったからだろう。同じように寒さを心配しているけれど、外を見ている中宮様に寄り添って火鉢を用意しようとする人と、すだれを下げて中へ押し込めようとする人。どちらも相手を大切にしていることには違いないのだけれど、相手の心まで大切に思って言葉をかけたのはまひろだけ。こういう違いって大きいんだなと思う。少し心の見えた中宮様がこれから少しずつお変わりになっていくのだろうか。
あの女房たちの部屋の鳥瞰図みたいなカメラワークは面白かったです。当時の生の息遣いみたいなものが感じられました。良い演出だったなと思います。彰子もようやく、らしさみたいなものが顔をみせはじめたし、帝との関係も少し変わり得る可能性みたいなものが期待できますね。時代的に婚姻が政治に左右されるのは仕方がないにしても、だからこそ互いの立場を知り、歩みよることこそが、己を守ることになる。一条帝はそこがわかっていない。それにしても武士の台頭を抑制するようなことを言う道長だけど、自分の血筋ではないにせよ、いずれ武家の代表格である源平藤橘のひとつになるというのは皮肉ですね。
道長からの依頼で帝のために書き始めた物語だけれど、物語を書くこと自体に喜びを見出して生き生きとしているまひろ。俺の惚れた女はかような女であったのかという道長の心の声が面白い。自らが望んだことではなくても、思いのほか自分に合っていてはまるというのは時々あることだ。自らの喜びの域にならなければ、あれほどの長編を書くことは難しいだろうし、上手い話の持っていき方だと思う。帝は腹を立てながらも物語の続きを読みたい、書き手に会いたいと前のめりだ。自分の喜びになった物語も、本来の目的の人に喜ばれたとあれば喜びは倍増だろうなと思う。いよいよ宮中の華やかなシーンが増えると思うと恐ろしいと共に楽しみだ。
今回1番良かったのは倫子が「まひろさんのことをどうして知っているの?」と聞いた時に澄ました顔で公任から聞いたと答えたところ笑。サスペンスでも始まるのかという緊張がわずかにあって面白かった。不意打ちにも強い道長、いい人だけでは務まらないよね。倫子にとって道長は最高の旦那様で申し分はないけれど、心の中までは縛れない。道長の中に誰か触れられない思い人がいると気づいていれば悲劇だ。まひろがいよいよそばに来る。その人がまひろだと気づかれませんように。
相談役ともいうべき安倍晴明が死んで、権力はあれどもある意味で孤独だといえる道長。権力者の孤独というよりも、なりたい自己とならねばならない自分との葛藤ですかね。それにしても事実通りではないにしても、こういう帝がいたとすれば、政治は動かなくなるから、必然的に有力な摂関家を産み、更には武家による幕府を産んだ背景のひとつかも知れないなと思ってしまいます。さていよいよまひろではなく、紫式部としてのスタートです。
紫式部と安倍晴明と藤原道長と一条天皇と花山天皇がひたすら可哀想。
枕草子が綺麗すぎるのは元は定子様1人に向けて作られた癒しの物語だからで、清少納言の一点の曇りもない忠義や親愛から出たお慰めしたいという気持ちの表れ。個人的なもので後世の今の世まで残っているなんて清少納言の方が驚いているのでは?と思ってしまう。対して源氏物語は最初からキャッチーなものを狙って書かれている。帝が次が読みたくなるようなワクワクを求められて作られたから全く作風は異なるのだ。こういうの学生時代に知っていたら古典がもっと面白かっただろうな。
中宮様へと偽りまひろへ物語を書くように頼んだ道長。いったんは書きあがったけれど、いろいろあって帝への献上品だと知った。帝のことあれやこれやと日が暮れるまで聞き出して、それで書き上げたのが源氏物語。なるほどと思う。宮中の物語でありながら、誰かモデルがいそうでいなさそうで、身近であって少し遠い、そんな物語な気がするから。それでいて人の内面を容赦なく描いているから、場面によっては自己投影できてしまう。献上されたのはほんの最初の方だけだと思うけれど、あれを帝が読んでどう反応するのだろう。道長は少し怖がっているようにも思えたのだが。
いよいよ源氏物語の登場です。あの物語が一条帝に向いているかどうかは首を傾げるけれど、随筆とか日記とか説話集などとはまったく違う、まさに文学としての価値や面白さは、ドラマよりももっと驚きを与えただったろうと思います。先に「伊勢物語」はあったけど、源氏物語の方がずっとモダンだし、インテリジェンスのあるものだったでしょう。紙が貴重な時代だし、あれだけの紙をいただければ、紫式部のような人にとっては華美な贈り物より、よほど嬉しかったでしょうね。さて一条帝の反応やいかに?
帝は定子の忘れ形見のところへ通ってきてはいるけれど中宮には目もくれない。笛は耳で聞くものだと言って顔を向けなかったのがそんなに気に入らなかったのか。倫子の命をかけた願いを帝は聞き入れてくれるのだろうか。まひろは物語を書くことに夢中で賢子はつまらないのはよくわかる。ただ火をつけるとは衝動的だとしても恐ろしい。飢饉の真っ最中じゃなくて良かったと思う。女房達に評判の物語がとうとう左大臣の耳に入り、いよいよ源氏物語が始まると思うとドキドキしてしまう。左大臣はどう切り出すのだろう。
勉強が好きって羨ましいよね。まひろはそのタイプ、面白いが勝って辛いなんて思ったことはない。しかも勉強ができれば褒められることはあっても貶されることはない。だから賢子にもそうなってほしいんだよね。その気持ちは分かる。ただねーまひろは好きだから文章書いてるんでしょ。賢子の気持ちも汲んでほしいな。と思っているところで火事発生。あれは怒られて当然。子育てって昔も今も悩みだらけなんだな。余談だけど、晴明に道長が10年寿命をあげるといった時貴方様に10年はありませんと言われなくてよかったね笑。
毎度のことだけど超人清明だ。陰陽師は気象にも通じていたので、雨が振りそうなタイミングで雨乞いをするから高確率で雨が降る。また占いは人の情報を知るし、機微を知るから当る。そういうある種の技術だ。超常現象のようにしないで欲しい。それにしても一条帝は随分と暗愚な設定だね。権威は支えるものがいての権威。定子を愛しているというが、定子だって道隆が無理矢理に四后並立という奇策でねじ込んだ政略結婚。結果として愛したというのは構わないが、だからこそ政略結婚の意味を帝もよく理解していた筈。史実としても藤原元子や藤原義子と仲良くやっている。彰子だけああだと、一条帝は政治的に道長と対立する気がと思われるのが普通の感覚だろう。もう少しこの時代の帝の立場を考慮した機微を見たかったかな。
日陰の身ではないとはいえ、やはり妾というのは辛い立場だなと思う。改めて道綱の母の言葉が思い出される。豊かな暮らしも夫が生きていて通ってきてくれていてこそのもので。父に官職がなく夫もなくでは、まひろのように左大臣の好意に甘えるしか賢子を養育するすべがないだろう。定子亡きあとのききょうが生んだ草子は定子在りし日の光を封じ込めたかったから。そして、それを広めみんなの記憶に留めようとするのは純粋に定子が好きだったからというより、悔しかったからなのだろうか。一方まひろは闇も書くべきだと言った。賢子が好きだから物語を書こうとしているのだろうけれど、いよいよ源氏物語が生まれるのかと思うとドキドキする。
宣孝が死んだ。あれほど娘をかわいがり妻としての自分に惚れ切っていると素敵な笑顔を見せてくれた旦那様の最期にも立ち会えず葬儀も終わってから知らされる。それが正妻との違いなんだなと思う。前回の倫子と明子も同じこと。若い頃のまひろが道長に北の方でなくては嫌だとこだわった気持ちが分かった。それにしてもいつまで経っても為時の一家の大黒柱としての意識が変わらないのがイライラする。また一気に貧しくなるまひろたち。いよいよまひろの活躍が待たれる。
なるほど全体的な構図というか意図が見えてきましたね。この時代に生まれた女流文学も、当時の政治とは切り離せるものではなく、清少納言の枕草子は定子亡き後の中関白家のプロパガンダに使われ、この後、紫式部の源氏物語は道長に利用されることで広まったとしたいのかなと推測します。おそらくはそれに納得しない紫式部はそんな思惑を越えた見事な芸術的な文学作品へと源氏物語を昇華させていく、という感じでしょうか。いきなり宣孝が亡くなったのは残念だけど、いよいよ紫式部が歴史の舞台に上がる序章という感じでしょうか。
そんなに帝が好きだったなら髪など下ろさなければ良かっただけのこと。中宮としての仕事ができないのに寵愛だけは受けたいとは贅沢な話。今回ばかりは女人たちのヒソヒソ話に大きく頷いてしまった。その定子が亡くなったのはもしかしたらいいタイミングだったのでは?と思ってしまう。道長の方は伏せっている時に妻と妾でばちばちだったとは知らないにしても2人の妻が心配しているのにまひろで起きるとは!なんとも切ない。あきこはどこまで気づいただろう。
定子が亡くなりました。それにしても定子は何を思っていたのでしょうね。家のこと、帝のこと、どちらも思っていたのでしょうが、どちらも中途半端。まあ当時の女性にそれほどの政治力があったわけではないし、やむを得ないとろはあるけど、このドラマの形だと一条帝や伊周の暴走を許す傾国の美女とも言えます。結果として中関白家はどんどん廃れるしね。それにしても今の道長はブラック企業の中堅管理職みたいだ。そりゃあ倒れもするよ。
まひろと道長の会話が終わった後、戻ってくる道長の目の中にはまひろしかいない!キャー!大河ドラマでこんなにキュンキュンするシーンが見られるとは驚きです。そして不実の子とまひろを丸ごと受け入れる宣孝にも驚きです。これくらいの度量がなければこの時代モテないのかもしれませんね。一条帝は‥反抗期ですか?帝の重圧は計り知れないものだし当たるところが母くらいしかないのは分かりますがあれはただの反抗期です。なんとも情けない限りでした。