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| 脚本・ストーリー 4.0 /5.0(80%) | 311位 /1271件中 |
| キャスト 4.5 /5.0(89%) | 220位 /1271件中 |
| 演出 4.3 /5.0(85.4%) | 162位 /1270件中 |
| 音楽 4.0 /5.0(80%) | 204位 /1271件中 |
| 感動 4.0 /5.0(80%) | 112位 /1266件中 |
| 笑い 3.6 /5.0(71%) | 253位 /1266件中 |
| スリル・興奮 3.2 /5.0(63.6%) | 624位 /1263件中 |




4.09 / 5.0 (回答者数11人) 219 位 / 1268件中
| 脚本・ストーリー 4.0 /5.0(80%) | 311位 /1271件中 |
| キャスト 4.5 /5.0(89%) | 220位 /1271件中 |
| 演出 4.3 /5.0(85.4%) | 162位 /1270件中 |
| 音楽 4.0 /5.0(80%) | 204位 /1271件中 |
| 感動 4.0 /5.0(80%) | 112位 /1266件中 |
| 笑い 3.6 /5.0(71%) | 253位 /1266件中 |
| スリル・興奮 3.2 /5.0(63.6%) | 624位 /1263件中 |
圧倒的な個性と静寂と寂しさ、人間ってそれぞれが絶妙なバランスで生きているんだなと思い知る。魯山人が1人で孤独死するような終わり方じゃなくヨネ子の結婚や魯山人のアメリカ訪問など明るさを残しての終わり方がとても良かった。人生は出会いと別れでできている。春子さんや松山との別れ、ヨネ子との別れ。出会ったからこそ味わえる幸せがあり、だからこそ別れも寂しい。あれだけ孤食にこだわっていた魯山人に自分の粥を振る舞えたことはヨネ子の一生の思い出になることだろう。
全体的に魯山人という芸術家の孤独が感じられるドラマだったけど、飽くなき執念とか、年寄りとしての諦念も見え隠れしていて見ごたえがあった。最後はロックフェラーによる招待で、変わらない強烈な矜持と自尊心を見せるところが魯山人らしい。
いろいろなタイプの芸術家がいるのだろうけれど、魯山人という人は自身に欠けている何か、コンプレックスから生まれる強い衝動の先に、美を見つめていたのだろう。
それにしても藤竜也さんの芝居が素晴らしかった。老境の匠を感じました。古川琴音さんも絶妙の品と距離感がうまかった。癇癪持ちの魯山人がキレないのが納得できました。
ロックフェラーに振舞ったご飯の3形態。
なるほどと思うし、一度食べ比べしてみたいなとも思う。
新年にあちこちから集まって、各地のお雑煮の食べ比べしてるあたり楽しそうだし賑やかだ。
でも、どことなく寂しさというか冬なのに秋風のような空気感で。
食道楽の狂言を見ながら、昔の自分を思い出し夢うつつになっている様が、いよいよ終幕が近いんだなと思わせる。
みんなの置いて行った名残の熱を創作意欲に転化したのか、素晴らしい緋のお茶碗ができていた。
国税にみんな持っていかれても隠していたお茶碗。
それをヨネ子への結婚祝いにしてしまう。
あの家にはもう何もないし誰もいない。
でも、魯山人には次のアメリカでの展示会という夢だけが残された。
芸術家だった魯山人には夢さえあれば良いのかもと、最後のまた気の満ちた顔を見て思った。
生い立ちもだけれど、芸術家という意味でも偏屈になるだろう要素はたくさん持っていそうな魯山人。
きっと自分は魯山人だ!ということ以外、自分自身をすっくと立たせるものを持っていなかったということなのだろう。
誰も魯山人のことを馬鹿にしていないし、きちんと対していると思う。
それでも心のどこかで捨て子だと馬鹿にされているのではないかと疑心暗鬼になっているのだろう。
本名を言われただけでもその疑いの部分が暴走しているように見える。
どんなにか生きにくい人生だったのだろう。
そういう意味では、イサム・ノグチもアメリカにおいては日本人だと言われ、日本においてはアメリカ人だと受け入れられずどこのものかわからない人生だったのだろう。
広島の平和記念公園の件は知らなかったが、そいういうことの一端なんだろうと思うと哀しくなる。
「私は北大路魯山人だ!」と何度も叫ぶってところがこの人のミソなんだと思う。自分で自分を守っているように見えるし、何者でもなかった自分の頃から変わらない寂しさだったり虚勢だったりが見える。そういう人は馬鹿にされることが許せない。自分自身でさえ持て余してしまう癇癪持ち、こういう人って確かにいるんだよね。春子さんの功績は魯山人も理解しているし、娘だって本当はどうしようもなく愛おしい。ついていく人も大変だけど一番苦労してるのは本人かもしれない。
春子さんを追い出してしまうとはねえ。魯山人のプライドというよりも、コンプレックスに火が付いたと言った方が正しいのだろう。この頑迷さは自分自身の心を守るための武器であり盾であるんだね。だからといって同情は出来ないし、しょうもないなと思うけどね。
ヨネ子が再びやってきた時の笑顔はまるで子どもみたいで、子どもの頃に得られなかった愛情に飢えていたことの代償に見えました。
人間国宝を断ったのも、芸術家としての矜持というより、自ら強靭なものとして作り上げた北大路魯山人というある種の虚像を崩さないための矜持なのかもね。
あんなに偏屈だとどれだけ料理がおいしくても人は離れていってしまうんだろうな。
電気も止められそうだったり、税金も滞納していたり。
一度に動くお金はおおきそうだけれど、単発だと固定費はなかなかコンスタントには払えないのだろう。
あれほど家族一緒に食べる家庭料理がおいしいようなことを言っているのに、本人は何年もひとりで食事をしている。
そこにもなにか訳があるのだろう。
悲しい生い立ちのせいで他者を信用しきれないし、こじれた性格になっている部分もあるんだろうな。
五山の送り火と亡き人に捧げる食事。
飛竜頭の炊いたん食べたくなった。
魯山人のサロンに訪れるにはちょっと品のない人たちだったかな。お客様は神様じゃない、それ相応のマナーがあって然るべきだ。イカのことはきっかけにすぎず、ヨネ子の扱いなどを見ると最初からいけすかない客だったのだ。そんな客の中に女性がいたのも興味深い。関係性は分からないけれど、目の前で若い女性が困っているのに手も口も出さない。虎に翼風に言えばスンとしてるのである。魯山人が大暴れしたことをその女性はどう思っただろう。ちょっと聞いてみたいと思った。
某グルメ漫画で広く名前を知られるようになった北大路魯山人。偏屈な人だという話はよく聞きますが、なかなか本当の姿が見えない人物です。
客を金蔓と言いながら、気に入らない客には癇癪を起こす。でもこのイカの話なんかは、知ったかぶりで頓珍漢なことを語る偉い人に食わせたくないというのは、こうでなくちゃと思う部分もある。そういうところに魯山人は芸術家というより、そのものの本質がわかる人なんだなと感じる。
めちゃくちゃになった料理をアレンジし直して、皆で食べるシーンは家族のような温もりを感じたけど、その後の魯山人ひとりでの食事シーンは家族に対して苦しい思いがあるのがわかるコントラストになっていた。
藤竜也さん、古川琴音さん、満島真之介さんらの芝居も素晴らしい。
ヨネ子さん、怖いもの知らずだな。
魯山人相手に好きなこと言ってるし、緊張もするみたいだけれど好奇心が上回っている。
好奇心旺盛で素直というのは、こういう時に好かれる条件みたいなところあるのだけれど、あまりに鉄板な気がする。
吉田邸で疲れて眠りこけてしまうあたりも、一晩中桶を揺すっていたのだろうし疲れていることはわかるけれど、まだ知り合って間無しなのに大胆というか緊張感がないというか。
それにあの寝姿はこの時代だしハシタナイってなるんじゃないのかな。
人は偉くなるほど特別扱いになるけれど、言い換えれば腫れ物扱いになってしまうこともある。そうなるといい意味で空気を読まないヨネ子みたいなのが重宝されたりするんだよね。肩書など全てをすっ飛ばして感じたままに意見を言ってくれる人に興味が湧く。だから魯山人がヨネ子を気にいるのは不思議ではない。ただデフォルトの組み合わせにそれ以上の展開があるかってところが次からの見せ場ではないだろうか。ヨネ子がただのお気に入りじゃつまらないでしょ。